かく、このたび、あつめえらばれて、山した水のたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまは、あすかがはのせになる、うらみもきこえず、さざれいしのいはほとなる、よろこびのみぞあるべき。
「このように、この度、集め選ばれて、(山した水のように)絶えることなく、(浜の真砂のように)数多く積もったので、(飛鳥川の淵が瀬に変わるように)歌が衰えて人知れぬものになる恨みも耳にしない。(細石が巌となるように)歌がいよいよ栄えて行く喜びだけがあるに違いない。」
『古今和歌集』により、和歌の未来が保証されるだろうと予想している。
それ、まくらことば、春の花にほひすくなくして、むなしき名のみ秋の夜のながきをかこてれば、かつは人のみみにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくくものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらがこの世におなじくむまれて、このことの時にあへるをなむ、よろこびぬる。
「さて、この序の言葉は、(春の桜の花のように)匂いが少なくして、空しい名ばかりで(秋の夜のように)だらだら長く御託を述べているので、一方では、人の耳に入るのを恐れ、一方では歌の精神に反して恥ずかしく思うけれど、(たなびく雲のように)立っても座っても、(鳴く鹿のように)起きても臥しても、貫之らが、この世に同じく生まれて、『古今和歌集』の編纂の事業に関われたのを喜んでいる。」
ここは、仮名序の文章に対する謙遜と編纂に加われた喜びが述べられている。「つらゆき」と名前を出して、仮名序の書き手を明らかにしたところに、誇りと責任とが感じられる。
人まろなくなりにたれど、うたのこと、とどまれるかな。たとひ時うつり、ことさり、たのしび、かなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづら、ながくつたはり、とりのあと、ひさしくとどまれらば、うたのさまをもしり、ことの心をえたらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも。
「人麻呂は亡くなってしまったけれど、歌の精神は留まっているのだなあ。たとえ時が移り、物事が移り変わっても、楽しみ悲しみが行き交っても、この歌の文字があるのだから、その心は消え失せてしまいことは無い。この本が(青柳の絲のように)絶えず失せることなく長く伝わり、久しく留まったなら、歌の様をも知り、物事を心得る人は、大空の月を見るように、この歌集を見て、古を仰ぎ、今を仰ぎ恋いずにいられようか、必ず仰ぎ恋うることだろう。」
『古今和歌集』の意義を自賛している。この歌集を完成した喜びと満足感に溢れている。そして、貫之の思い通りに、正岡子規の否定論が出る明治の世まで、千年の間仰ぎ奉られることになる。
コメント
「たなびくくものたちゐ、なくしかのおきふしは」、寝ても覚めても和歌に夢中、編纂事業に携われる正にその時、居合わせることができたのは天の采配、と喜びに満ちた言葉が並んでいますね。
柳の青さは生まれたての歌集を思わせるし、松はそれが長く色褪せない、まさきのかづらは香り高く伸び広がっていく和歌の世界を願っているようで、歌集への愛情と作品の仕上がりに対する自信を感じさせます。子規に否定されてもなお、ここまで伝わった事を貫之に知らせてあげたいです。
「柳の青さは生まれたての歌集を思わせるし、松はそれが長く色褪せない、まさきのかづらは香り高く伸び広がっていく和歌の世界を願っているよう」は素晴らしい鑑賞です。
それこそ、貫之に知らせてあげたいです。
こうなると、『仮名序』だけに留まっているわけにはいきません。所収の和歌を読んでいきましょう。