六つの歌の様①

そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。

「そもそも、うたのさま、むつなり」と根拠抜きで説く。「からのうたにも、かくぞあるべき」は、漢詩もそうであることが、その根拠ではなく、当然の結果としてあげられている。詩には、言語の違いを超える普遍的な法則があると言うのだ。だから、和歌も漢詩も同じなのだと説く。この考え方は、「人の一つの心」の考え方に通じている。貫之は、詩の普遍性を信じたがっているようだ。

そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。

「そへうた」の説明から始まる。「そへうた」とは、日本国語大辞典によれば、次の通りである。(以下同じ)
そへうた:思いを表面に現さず他の事にことよせて歌った歌。
この例で言えば、難波津に咲く桜の花にこと寄せて、「おおささぎのみかど(=仁徳天皇)」を讃えていることになる。

ふたつには、かぞへうた、
さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
といへるなるべし。

かぞへうた:他のものにたとえないで、そのままをよむ歌。
この歌の意味は次の通りである。
「咲く花に心を奪われる無益さよ。我が身に病気であるのも知らないで。」
歌の中に「つぐみ(鳥)」とそれに関連して「いたつき(矢尻)」が入れてある。この歌は、『拾遺集』「物名」の中に入っている。したがって、「かぞへうた」は、物の名を読み込んだ歌を言うのかもしれない。歌の中から物の名を数え上げることが出来る。

みつには、なずらへうた、
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。

「なずらへうた」:他のものになぞらえてその意をよむ歌。
この歌の意は、次の通りだ。
「君に今朝、朝の霜が置いてしまったならば、恋しい度に一面消えるだろうか。」
霜は白髪をたとえている。君を恋う度に白髪が消えて欲しいと言う。もちろん、それは無理な話だ。しかし、無理を承知で願わずにはいられない君の長寿を願う思いを表している。物事を露骨に述べることを避けるのに効果がありそうだ。

コメント

  1. すいわ より:

    二つ目の「かぞへうた」、『例えを入れずにそのまま詠む』、そのままの中に『言葉を織り込む』のが寧ろ難しいですよね。
    工夫に工夫を重ねて言葉を編んで心を伝える和歌、受け取った人はどんな贈り物より嬉しいでしょうね。と、私が思うのだから、貫之が信じたかった「普遍性」は信じるに値するのではないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      おっしゃるように、和歌の技巧は、心を伝えるための手段です。手が込んでいることが一層心を伝えます。
      それを後の人たちは誤解して、技巧のための技巧になってしまったきらいがあります。心を置き去りにして。
      それが正岡子規の批判につながったのでしょう。

  2. らん より:

    先生、勉強になることがいっぱいです。
    貫之の考える詩の普遍性。
    漢詩も同じ、ひとつの心を詠むもの。
    そう考えると言語も時空も超えてみんなの心がつながるんですね。すごいなあ。

    詩とは素直に詠むということ。
    確かにそののちの人たちの歌は工夫しすぎて心が置き去りになってるものもあるかも。
    毎回先生の解説にふむふむって思います。

    • 山川 信一 より:

      歌は感動する心から生まれるものです。言葉が先行して技巧に走るべきではありません。
      技巧は、感動を伝えるための手段です。技巧を凝らすかどうかは、感動の内容によります。
      と言っても、素朴に見える表現が技巧を凝らしていないわけではありません。
      素朴に見えるのは、素朴に見せているのです。それも技巧です。
      いずれにしても、まず感動する心が本物であることが根本にあります。

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