ぬさのおひかぜ

廿六日、まことにやあらむ、かいぞくおふといへばよなかばかりよりふねをいだしてこぎくる。みちにたむけするところあり。かぢとりしてぬさたいまつらするに、ぬさのひんがしへちればかぢとりのまうしたてまることは、「このぬさのちるかたにみふねすみやかにこがしめたまへ」とまうしてたてまつる。これをききてあるめのわらはのよめる、
わたつみのちぶりのかみにたむけするぬさのおひかぜやまずふかなむ
とぞよめる。このあひだにかぜのよければかぢとりいたくほこりて、ふねにほあげなどよろこぶ。そのおとをききてわらはもおきなもいつしかとしおもへばにやあらむいたくよろこぶ。このなかにあはぢのたうめといふひとのよめるうた、
おひかぜのふきぬるときはゆくふねのほてうちてこそうれしかりけれ
とぞ。ていけのことにつけていのる。

廿六日、真にやあらむ、海賊追ふと言へば夜中ばかりより船を出して漕ぎ来る。道に手向けする所あり。舵取して幣たいまつらするに、幣の東へ散れば舵取の申し奉ることは、「この幣の散る方に御船速に漕がしめ給へ」と申して奉る。これを聞きてある女の童の詠める、
「わたつみの道触りの神に手向けする幣の追ひ風止まず吹かなむ」
とぞ詠める。この間に風のよければ舵取いたく誇りて、船に帆上げなど喜ぶ。その音を聞きて童も翁もいつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。この中に淡路の専女と言ふ人の詠める歌、
「追風の吹きぬる時は行く船の帆手打ちてこそ嬉しかりけれ」
とぞ。天気のことにつけて祈る。

たむけ:神仏に供え物をすること。
たいまつらする:「たいまつる」は「たてまつる」よりくだけた言い方。「(神仏に)さし上げる」。「する」は使役の助動詞「す」の連体形。
わたつみのちぶりのかみ:海の旅の安全を守る神。
ふかなむ:吹いて欲しい。「なむ」は願望の終助詞。
ほこりて:自慢する。得意になる。「いたくほこりて」と「いたくよろこぶ」が対照的。
いつしかとしおもへばにやあらむ:少しでも早く早くと思うからであろうか。「とし」の「し」は強意の副助詞。
あはぢのたうめ:「たうめ」は老女。(使用人の一人で、「淡路の専女」は通称であろう。)

問1「かぢとりいたくほこりて」あるが、舵取りが「ほこる」理由を説明しなさい。
問2「おひかぜの」の歌を、「ほてうちてこそ」の意味に注意して鑑賞しなさい。
問3 作者(=貫之)は、二つの歌を通してどんなことを伝えようとしているのか、説明しなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    問一 書き手は舵取りの言い分を訝っている様子ですね。海賊が追ってきていると言っているのは舵取り、夜の闇に紛れて船を進めようという事なのでしょうけれど、夜中に船を出すのは危険な感じもします。そんな中、航海の主導権を握り、幣を奉った後に順風を受け、いかにも自分の判断が良かったのだ、ということを誇っている。神の宣託を受けたかのように幣の流れた方に、と言って不安な乗船客により自分が選ばれた舵取りであるかのようにアピールしているみたいでもあります。
    問ニ 帆にいっぱいに風を受けて行く船の嬉しいことと言ったら。順風に、はたはたと音立てる帆みたいに私たちも嬉しくて手をぱちぱちと打ち鳴らしてしまうわ。
    問三 女の童の歌、神のお導きの幣の流れて行く方向に順風が吹き止みませんように、と切に願っていて、追い風の歌も同様に続く欠航ですっかり疲れ果てた乗船客の、とにかく一時も早く京へ到着出来るよう、風待ちの強い思いを伝えている。

    • 山川 信一 より:

      問1 船のことは舵取りに任せるしかありません。海賊への対処の仕方も同様です。海賊は夜中に行動しないと言うことであれば、それを信じて夜中に出航しなければなりません。海賊が追ってくると言うのは本当なのか、夜中に出航して大丈夫なのか、不安は募るばかりです。舵取りは、幣を撒くことを指示します。すると、タイミングよくいい風が吹いてきました。自分の支持が正しかったので、舵取りはすっかりご機嫌になり、得意満面です。自分の力を誇示できたからです。これは今後何かと都合が良いからです。子どもや老人は、舵取りを信じたのか、とても喜んでいます。書き手は、そこに一抹の不安も覚えています。
      問2 その通りです。「帆手打ちて」に「帆手が帆をばたばたとばたつかせて」と「手を打って喜んでいる」を重ねて表していますね。情景が目に浮かんできます。上手い歌です。
      問3 二つの歌は一行の思いをよく表していますね。ただし、まず思いがあって、次にそれに言葉を与えたとばかりは言えません。むしろ、歌にすることで、「その時の思いがそういうものだったのだ」と捉えることができるのです。歌にはそういう働きがあります。一方通行ではありません。貫之はそのことを伝えたかったのでしょう。

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