講師への批判

廿四日、講師むまのはなむけしにいでませり。ありとあるかみしもわらはまでゑひしれて、一文字をだにしらぬものしがあしは十文字にふみてぞあそぶ。

「いでませり」は、尊敬語である。しかし、そのまま受け取れない。敬語がいつも尊敬を表すとは限らない。ここでは、講師が(予想通りに)やって来たことへの皮肉である。「やれやれ、やっぱりお出でましになられましたか。」といった感じ。
講師は、大勢の人々を引き連れてやって来た。そして、身分の上も下も、それどころか年端も行かない子どもまで酔い乱れて、一という文字さえ書けない者がその足は十文字になって大騒ぎした。足が十文字と言うのは千鳥足になってと言うこと。
ここでも洒落によって皮肉を言っている。「講師の教えは、一体どうなってるのか。真面目に自分の仕事をしているのか。一の字さえ書けないのに、酔うことだけは学んでいるよ。(足で十を書いているよ。)」といった思いだろう。
講師も八木康教とは対照的な人物である。講師とあろう者が何という醜態をさらしているのかと苦々しく思っている。
「ものしがあし」は、「者、其が足」と解したが、講師に引っかけて、「物師が足」かもしれない。ここで「物師」とは、何の専門家かわからない連中・訳のわからない輩ほどの意味。

コメント

  1. らん より:

    酔い潰れて醜態をさらしてるのは講師と一緒にいる人たちなのですか。
    だから講師を批判しているのですか。
    そこがよくわからなかったです。
    となると、ああ、嫌な奴がきたよって、あきれた言い方なのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      藤原時実、、八木康教に続いて、講師について述べています。ここでの主題は講師です。だから、「ありとあるかみしもわらは」は、講師が引き連れてきた者たちです。
      講師が来ることはある程度予想されていたのでしょう。それで「やっぱりお出でになられたよ。」という思いになったのです。そして、その後も予想通りの展開になりました。
      「講師は一体何を教えているんだろうね、まったく!講師の名が泣くぞ。」という思いになりました。皮肉の一つも言わずにはいられませんでした。それがこの洒落です。

  2. すいわ より:

    皮肉を込めて「よくもまぁ、嗅ぎつけて来た」だったのですね。世間的に地位の高いであろう人が揃いも揃って俗悪でがっかりします。「しがあし」が何だか見当がつかず、「物師が足」、そのまま「正体なし」の酔っ払いだったのですね。「一すら知らないものが教えを受けて足の先まで学び充ちて(十)喜んでいる」のかと思ってしまいました。八木康教のような人(貫之も)もいると言うのに、器ばかりで中身の伴わない目立つ人がいると「役人」と一括りに悪く思われるのが気の毒です。昔も今も変わらないのが情けないです。貫之は誠実な人だったのでしょう。書くことでストレス解消していたのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      紀氏は政治的に不遇でした。下手な批判をしたら、どんな目に遭うかしれません。しかし、それでも何か言わずに言われませんでした。
      真面目に自分の仕事をする者がバカを見たり、地位や身分お高い者が遊んでいるような世の中に我慢がならなかったのでしょう。
      いつの日かこの批判が生かされることを祈って『土佐日記』を書いたのでしょう。

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