第百二十六段  博打の時機

 ばくちの負けきはまりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。たちかへり、つづけて勝つべき時の到れると知るべし。その時を知るを、よきばくちと言ふなりと、或者申しき。

「博打打ちの負けが極まって、残り全部掛けようとする場面に遭っては、こちらからは打つべきではない。折り返し、続けて勝つに違いない時が到来したと心得るべきである。その時機を知る者を優れた博打打ちと言うのだと、或る者が申した。」

賭事は勝つこともあれば、負けることもある。勝ちが続けば負けに転じ、負けが続けば勝ちに転ず。どこまでも勝ち続けることも、負け続けることもない。賭事は、確率的に勝率は50%に落ち着く。当然の理である。「或る者」とは、自身が博打打ちなのだろう。長年の経験からこのことを学んだのである。
「禍福はあざなえる縄のごとし」とか「人間万事塞翁が馬」とか言う。人生には、良いことも悪いことも、長くは続かない。必ず転じる時が来る。人生そのものが賭事のようなものなのだ。博打のようにくだらないものからも、人生の実相を学ぶことができる。兼好はこう言いたいのだろう。
「高名の木登り」や「双六の上手」と同種の話である。「申しき」とあるから、兼好自身の経験である。交際範囲、見聞の広さを示すことによって、説得力を持たせようとしているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    博打うちがその道の「専門」とするところを語るこの段、確かにこんな人とも交友があるのかと思わされますが、これを読んだ法師たちがその言に従って、やはり大損するのを、それ見た事か!と舌を出している兼好の顔を思い浮かべてしまいました。胡散臭い専門家と生臭坊主。双方兼好がいかにも嫌いそうな人たち。

    • 山川 信一 より:

      当時の主な博打の手段は、双六と囲碁でした。兼好は、双六に引き続いて博打の話をします。これは、兼好自身の関心の強さを示しています。今でこそ嫌っているにしても、一度はそれにはまったことがあったのではないでしょうか。だから、全面的には否定できず、博打からも何かを引き出そうとしているように思えます。

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