廿四日、講師むまのはなむけしにいでませり。ありとあるかみしもわらはまでゑひしれて、一文字をだにしらぬものしがあしは十文字にふみてぞあそぶ。
この部分に漢字を当てると次のようになる。
二十四日、講師馬の鼻向けしに出でませり。有りと有る上下童まで酔い痴れて、一文字をだに知らぬ者が其が足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
講師:諸国の国分寺に置かれた僧官。国内の僧尼を管轄し、経典を講説する。
問「いでませり」にどんな思いこめられているかに注意して、この話を書く思いを説明しなさい。
廿四日、講師むまのはなむけしにいでませり。ありとあるかみしもわらはまでゑひしれて、一文字をだにしらぬものしがあしは十文字にふみてぞあそぶ。
この部分に漢字を当てると次のようになる。
二十四日、講師馬の鼻向けしに出でませり。有りと有る上下童まで酔い痴れて、一文字をだに知らぬ者が其が足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
講師:諸国の国分寺に置かれた僧官。国内の僧尼を管轄し、経典を講説する。
問「いでませり」にどんな思いこめられているかに注意して、この話を書く思いを説明しなさい。
コメント
ふじはらのときざね「むまのはなむけす」、やぎのやすのり「むまのはなむけしたる」、と書いていました。今回は講師が「むまのはなむけしにいでませり」、「僧侶が餞別にいらしている」わざわざ見送りの為にここまでお越しくださっている、という感じでしょうか?教え諭す人に対する尊敬の気持ちが込められているように思います。
続きが、立場の上下や年齢に関わらず宴会でありとあらゆる人がしたたか酔っぱらって「一」という文字すら知らない(書けない)人が足で「十」の字を書いて(千鳥足になっている?)上機嫌になっている、という実景なのでしょうけれど、僧侶の話から続いているので、「学ぶ事はどんな立場年齢も超えて尊いことで、全く何も知らなかった人でも学んだ後に幸いがある」と言っているような気がします。今現在の私の実感からも。
ふじはらのときざね「むまのはなむけす」、やぎのやすのり「むまのはなむけしたる」講師「むまのはなむけしにいでませり」と比較したところが素晴らしいです。語尾に思いが表れていますね。貫之は書き分けたに違いありません。
ただ、「いでませり」は尊敬語ではありますが、ちょっとひねりが利いています。
ふじわらのときざねの場合でわかりますが、貫之は酔っぱらいが嫌いみたいです。それも、今度は「わらは」まで酔っぱらっています。そのとおり「十文字」は千鳥足を表しています。ただし、これは学ぶこともしないで、酔うことは身に付けているという皮肉です。
高貴な方
この話の続きに大事な方
でしょうか。
敬語がいつも尊敬を表すとは限りません。たとえばこんな使い方をしませんか?
職場で嫌われ者の上司がいたとします。その上司が休みなのに出て来ました。
そこで仲間内でこう言います。「○○様がお見えになられました。」こんな感じです。