かくまでに我をば欺き玉ひしか

後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄《にはか》に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵《たふ》れぬ。相沢は母を呼びて共に扶《たす》けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団《ふとん》を噛みなどし、また遽《にはか》に心づきたる様にて物を探り討《もと》めたり。母の取りて与ふるものをば悉《こと/″\》く抛《なげう》ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。

「ここには、エリスが狂ってしまったいきさつが具体的に書かれている。相沢から豊太郎が隠していた大臣への同意を聞き、「私の豊太郎さん、これほどまでに私を欺いていらっしゃたのか。」と言ってその場に倒れてしまった。エリスはなぜ狂ってしまったのだろう。」
「豊太郎に裏切られたことがあまりにショックだったんだ。それは、最も恐れていたことだったし、何度も予想して脅えていたことでもあったから。」
「エリスには、自分の愛する人が去って行くというトラウマがあったからね。「やっぱりそうなってしまった。」ということで、ショックが倍増されたんだ。」
「エリスにも悲劇のヒロイン的な願望があったんじゃないかな。ロマンチストだし、まだ人生経験に乏しい、十代だからね。」
「でも、なぜエリスは相沢に対して私は豊太郎さんに聞くまでは「あなたの言うことなど信じません。」と言えなかったんだろう。」
「エリスは結局そこまで豊太郎を信じられなかったんだ。つまり、そこまで愛していなかったんだ。もっとも、それはエリスのせいとばかりは言えないけどね。」
「まあ、そうだね。豊太郎は愛される資格がないからね。」
「しばらくして目を覚ました時には周りを知覚できなくなり、豊太郎の名前を叫び、布団を噛み、急に何かを求める。母が与えるものをすべて投げ捨てるけど、オムツを与えた時に、探ってみて顔に押し当てて涙を流した。ここからはどんなことがわかるかな?」
「エリスは、豊太郎への憎しみでいっぱいなんだ。愛憎は表裏一体だからね。その一方で、生まれてくる子どもが不憫でならない。だって、生まれる前から父に棄てられたんだから。父に死なれた自分と重なる。」
エリスが狂うことがこじつけであってはならない。その点、特に不自然さはない。一応の必然性が認められる。と言うのは、エリスが狂うことには、物語的必然性があるからだ。物語的にここでエリスに狂ってもらわないと都合が悪いのだ。なぜなら、正気であれば、豊太郎と対決することになるからだ。すると、豊太郎は自分で何からの答えを出さざるを得ない。そうすると、豊太郎のキャラが変わってしまう可能性がある。鷗外はそれを避けたかった。豊太郎にはどこまでも卑怯に逃げてもらわねばならないのだ。しかも、実際対決する姿は書けなかったはずだ。もし書けば嘘になってしまう。それができる日本人は現実にどこにもいないからだ。できれば、それは日本人ではない。

コメント

  1. すいわ より:

    豊太郎が目覚めた時には既にエリスは正気ではなかった、後から聞いたことによると、と記すあたり、どこまでもこうなったのは自分のせいでは無いと言いたいのですね。挫折は立ち上がればいい、喪失は取り返しがつかない。だから無かったことにしたい。自分の娘がこんな仕打ちを受けて正気も失くしたというのにエリスの母は豊太郎を叩き出す事もしない。豊太郎を置いておく事で相沢から援助が受けられるからでしょうけれど、ますますエリスが哀れです。俗物の母がここにも。狂女となったエリスだけが我が子への母としての真っ直ぐな愛を失わずにいるのが何とも皮肉です。豊太郎の帰り着く所は、、「Einsamkeit.du meine Heimat , einsamkeit.」手本となる父がいなくても、いないからこそ自分の理想のただ一人の夫、父になる事が出来るのに、その尊さを選べない豊太郎にはお似合いです。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、自分ならエリスを狂わせることはなかったと思いたいのでしょう。しかし、それは当てのない願望に過ぎません。しかも、それを口にすることもありません。口にしたら、その方法を問われるからです。この男、救いようのない無責任男です。今一度、何がこんな男を生み出したのかを問うべきです。豊太郎だけの問題ではありません。
      エリスの母が豊太郎を叩き出さなかったのは、そういった計算もあるでしょうが、それ以前にエリスがそれをさせなかったからです。エリスは狂っても豊太郎の病床から離れませんでした。
      すいわさんの第二外国語はドイツ語でしたか。たしかに、豊太郎は孤独ですね。進んでその中に入っていきました。ただ、父になるという思いは豊太郎でなくても、この時期の男に求めることは無理です。そこに活路を見出すべきものなのかもしれませんが。

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