我心はこの時までも定まらず、故郷を憶《おも》ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此刹那《せつな》、低徊踟蹰《ていくわいちちう》の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭《かしら》は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼《どら》の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
「ここには、豊太郎のこの時点での思いが書かれている。心がこの時まで決まらず、日本を思う気持ちと出世を求める心は、時としてエリスの愛情を押しつぶそうとしたけれど、ただこの瞬間だけは、ぐずぐず思い悩む気持ちは去って、エリスの頭は豊太郎の肩に寄って、エリスの喜びの涙は肩に落ちた。とこうあるけど、これについてどう思う?」
「やはり、日本に帰りたいし、出世もしたいんだね。それと引き換えなら、エリスを棄てることもあり得ると思っていたんだ。確かに日本人が当時のヨーロッパで暮らすのは辛いよね。それに、大臣に重んじられているんだから、出世も出来る。これは迷うよね。しかも、母の教えに沿っているしね。」
「でも、この一瞬だけはエリスに心が傾いた。自分をどれほど愛してくれているかが伝わってきたからね。だけど、そう思うのは一瞬だけなんだ。」
「理性と感情の間で揺れている。でも、感情は移ろいやすいものだから、「此刹那」なんだよね。」
「御者の態度をどう思う?」
「感動的なシーンなのに、あまりに冷たいね。白人の女と東洋人とのラブシーンが不愉快なんだろうね。人種的偏見の表れだよね。豊太郎じゃなくても、こんなところで暮らしたくないと思うよ。」
「そう思ってみると、豊太郎にはドイツ人の友達がいないよね。大学に通っていた時に出来てもよさそうなのに。」
「その点は、他の留学生仲間と一緒で、日本人以外の人とは付き合わないようにしていたんじゃない?外国に行っても、結局日本人社会の中で生きているんだ。」
故郷・栄達と愛情の中で揺れる豊太郎。その思いは理解できる。できることなら、すべてを手にしたいだろう。御者の態度は、故郷を思う気持ちに対応している。人種的偏見に満ち、友達もいない欧州で生きてくのは辛いのだ。また、御者の態度は、この後のエリスの気持ちの伏線にもなっている。
望むものをすべて手にはできないとわかった時、人は何を選び、何を棄てるのか。豊太郎は日本を棄てられない。それは、愛のために国を棄てる覚悟のあるエリスとは対照的だ。
豊太郎は優柔不断だ。物事を割り切れない。相沢とは対照的だ。彼は何でも功利的に割り切れる。しかし、豊太郎は優しいから割り切れない。それが良くも悪くも豊太郎なのだ。エリスはそこに惚れたのだ。エリスは相沢には惚れないだろう。
一体出世とはどんな価値があるのだろうか。出世することで何を手にするのだろう。出世は生きる目標に値するのだろうか。人は心が満たされたいと思って生きている。出世が満たしてくれるのは、どんな心なんだろう。また、愛が満たしてくれるのはどんな心なんだろう。
コメント
出世も山に登ることが目的で山頂に着いたというのと、そもそも三角形の頂点の椅子に座るのが目的なのとでは結果が同じでも内容が全く違いますね(今は後者が多いように思いますが)。椅子が目的の場合、その三角形の外側に出たら何ら意味をなさないもの。そして一(孤)になっていく。愛も色々な形があるけれど、基本、二人以上で成立して広がりを持つ関係ですね。何より孤独を恐れる(感情)、でも家の再興という父母の遺言を遂行するため出世を目指す(理性)豊太郎。選べない訳ですね。これまでも散々、優柔不断ぶりを見せられてきたのですが、もし豊太郎に、どうしたい?どっちにする?と問うていたらどうなっていたのでしょう。皆、豊太郎に要求を突きつけるばかりで誰一人豊太郎の本音を聴く人がいない。選べないにしても自分の気持ちを吐露することで自分の位置を意識することは出来たのではないか。縋り付く豊太郎を甘やかすエリス、甘やかすことをエリスも喜びとしている時点でエリス=母の形から抜け出られない。豊太郎の中にエリスの愛の形が無い以上、選択肢の中からそれを選ぶ事はない、妻という対等な位置を手にするのは難しそうです。私が稼ぐ、お金も、生活の心配もしなくていいから貴方は好きな勉強をしたいだけしなさい!とでも言えない限り。
高い目標を持って人生を歩むことは、それ自体問題はありません。しかし、目標達成が手段では無く目的になることがあります。そうなると、主体が自分から他者の評価に移ります。自分の人生を奪われます。
とは言え、これは一般論です。豊太郎の場合、そう簡単には済まされません。
なるほど、人は自分本位で好きなことをしていられればそれに越したことがありません。しかし、人は義務と責任の中で生きています。豊太郎にとっての出生はそれだったのです。母への孝行であり、太田家の家長としての責任なのです。
豊太郎がエリスを取れないのは、必ずしも自らの出世欲からではありません。そうせざるを得ないのです。自分本位に生きることを許されないのです。義務と責任の中で生きています。加えて、相沢への友情が絡みます。天方伯への恩義が絡みます。だから、それを切り捨てて生きることに迷うのです。
その点、エリスは単純です。豊太郎との愛を貫くしかありません。母も国も棄てます。だから、エリスにはそんな豊太郎の悩みが何となくわかっていたのではないでしょうか?なぜなら、日夜豊太郎のことしか考えていないからです。
わかっても、豊太郎と生きていきたい。我がものにしたい。自分と生きてほしい。出産が済めば、自分も働く。だから、私だけを見て、私とだけ生きて。二人でこの子を育てていきましょう。そう願っています。
ただ、豊太郎は自分と対等に話をしてくれない、自分ほどは愛していないのか、身分が違いすぎるのか、そうした不安にさいなまれます。
そう見ると、これは日本的な生き方と西洋的な生き方の対立と見ることもできそうです。
日本的生き方と西洋的生き方。家族という単位を含む組織を規範とするか個を規範とするか。明治以降、現在に至るまで慣習というのはそうそう抜けるものではないですね。組織に埋没して責を逃れる人は沢山いる、でも、豊太郎は組織人としての責は負おうとしますよね。それは出世欲とは異なるもの、豊太郎の今は存在しない家族(先祖までも含めて)への愛の形とも言えるでしょうか。なのに個としての責は負いきれないと感じる。個として確立しきれていない、ということなのでしょうか。エリスのひたすら豊太郎一人に注がれる愛情、豊太郎にとって心地いいものでしょうけれど、この差はなかなかに擦り合わせるのが難しい。
個が組織を作るのか、組織が個を作るのか。現実的には、どちらでもあります。しかし、アプローチの仕方はに違いはあります。
エリスは前者の代表、豊太郎は公社の代表として、読むことも可能です。『舞姫』はテーマが盛り込まれています。
ただし、豊太郎はその両者を統一できる視点を持つことができません。それができる状況にいながらも。