余は少し踟蹰したり

 余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階《はしご》を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊《わたどの》をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟蹰《ちちう》したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎《いか》なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞《たく》ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑《いとま》あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐《ひるげ》を共にせんといひぬ。

「まず「カイゼルホウフ」というホテルの様子が描かれている。大理石の階段、「プリユツシユ」というビロード状の織物が掛けてあるソファ、鏡が付いている控えの間がある部屋、これらは何を表しているのかな?」
「招かれた「カイゼルホウフ」が一流ホテルだってことだね。いずれも豪華だ。さすが大臣が泊まるにふさわしいホテルだね。豊太郎は少し気後れしただろうね。今は場違いの身だからね。」
「相沢は、大学生の頃豊太郎が品行方正であるのを褒め讃えていたので、豊太郎は今の落ちぶれた自分をどう思うか心配で、会うのを少しためらった。しかし、それは杞憂だった。昔に比べれば少し太ってはいるが、変わらない快活の気性で、豊太郎の不始末をそれほど気にしていないように見えた。これには、ほっとしただろうね。以前別れてからの思いを詳しく述べる暇もなく、伴われて大臣にお目に掛かる。依頼されたのはドイツ語で記された文書で急を要するものを翻訳しろとの命令であった。相沢が豊太郎の語学力を買っていて、大臣に推薦したんだね。なぜかな?」
「豊太郎を助けることになるから。しかも、大臣に優秀な人材を紹介でき、自分も手柄の手柄にもなるから。」
「大臣はなぜそれを受け入れたんだろう。」
「もしその人物が有用ならば、恩を売っておくことで将来に渡って子飼いにできるから。」
「豊太郎が大臣の部屋を出た時、相沢は後から出て来て一緒に昼食を取ろうと言った。それはなぜ?」
「旧交を温めるためもあるし、これからの方針を伝えるため。」
 相沢は(そして天方伯も)、優秀な豊太郎をどうにかして抱き込もうとした。それには、今失職していることがむしろ都合がよかった。恩を売って、思い通りに使うことができるからだ。そのための計画は既にできあがっているはずだ。だから、まず豊太郎の情に訴える必要があった。ただし、相沢は、それが豊太郎のためにもなると信じている。自分だけが得をしようとは思っていない。相沢は、物事を合理的に捉える思考を身に付けているのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    良いも悪いも相沢が年相応の「大人」に見えますね。何が有用でその最大限の活用のためには枝葉末節など取るに足らない、と。学生時代を知っている相沢なら、豊太郎がどんな人物か見知っていて、女の事も上手く立ち回れなかっただけの事、と豊太郎の才能を掬い取る。おそらく大臣はテストする為に呼びつけたのでしょうけれど、急を要する案件があって、として才能を最大限発揮出来るよう配慮、大臣に今現在の彼の能力を見極めさせたのでしょう。食事に行こう、は大臣から採用承認が出たという事なのではないでしょうか。「よし、俺の計画通り、太田、お前の才能を存分に振るえる場が出来たぞ」、相沢は人生のゲームに長けたプレーヤー。豊太郎はまた、第三者の人生(ゲーム)の「駒」なんですね。自分の人生を自らの足で歩けていない。この差、生きる力の決定的な足りなさが豊太郎の最大の欠点ですね。

    • 山川 信一 より:

      相沢は、利己主義者ではありません。豊太郎がその才能を発揮できないことを残念に思うのです。しかも、それが自分の役にも天方伯の役にも立つはずものだからです。
      天方伯にも豊太郎が有用な人物であることを十分に説いているはずです。だから、天方伯も豊太郎に会って人物を確かめることにしたのです。もちろん、まだ仕事ぶりは未知数ですが、大臣ともなれば人を見る目はあります。顔を見るだけで豊太郎の有能さがわかったのでしょう。
      そこで、すいわさんがおっしゃるように、大臣からゴーサインが出て、相沢は豊太郎と食事に行けたのです。

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