「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年《いくとせ》をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道を窻の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被《おほ》ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼《たかどの》を下りつ。彼は凍れる窻を明け、乱れし髪を朔風《さくふう》に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
「豊太郎の受け答えについてどう思う?」
「ずるいね。エリスの問い掛けにまともに答えていない。巧みに答えをずらしている。まるで、国会での首相の答弁みたいに。あれって聞いているとイライラする。それと同じだ。妊娠にも触れていないし、棄てないとも言っていない。それでいて、問題の核心に触れられたくないから、取り敢えず今は安心させようと微笑んでみせる。男のずるさ満開だね。」
「一方、豊太郎のエリスへの思いやりもあるかな。エリスには、豊太郎の失職はエリスが原因であるのを隠している。だから、連れて行けるはずもない。それを今さら言う訳にもいかないからね。」
「でも、それって思いやりなのかな?ホントのことを言わないのは、エリスを認めていないってことだよね。」
「それなのに、「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。」と言うのは、要するに、自分はもうエリスと生きていくつもりになっているという意味だよね。でも、名誉挽回を忘れているはずがない。豊太郎、嘘ついてるね。」
「エリスはこの答えに納得したのかな?」
「しないだろうね。愛する人の嘘はわかる。だから、豊太郎の愛への不信感は更に募る。でも、それを認めたくはない。どこまでも信じていたい。信じようとする。信じるというのは、見ない・聞かない・考えない精神作用なんだ。」
「わざわざ一等のドロシュケ(一頭立ての辻馬車)を呼んだのも、豊太郎がある種の期待感を持っている表れだよね。なのに、エリスには本心を隠そうとする。バレバレなのにね。男って馬鹿だよね。」
「「少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して」ってどう?」
「なんか、かっこつけているよね。豊太郎の高揚感が伝わってくる。」
「「エリスに接吻して」からは、形だけでも安心させようとしていることがわかる。」
「でも、エリスは不安を抱えたままだ。それは「彼は凍れる窻を明け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。」からわかる。「朔風」は北風。この姿がエリスの心を象徴している。不安で不安でたまらないんだ。豊太郎はこれっきり帰ってこないんじゃないかとさえ思っている。」
「エリスの心にも北風が吹き、心は千々に乱れているんだね。」
豊太郎はエリスをこの部屋に置いていく。同時に、心理的にも置き去りにしている。エリスの不安を心から拭い去ってやろうとは思っていない。心は既に大臣との面会にある。豊太郎はなんでこんなに自分勝手なんだろう。そんなに大事なのかな。
コメント
豊太郎、口では大臣は見たくもなしと言っていますが友達と会うだけの為にわざわざ一等の馬車を呼んで正装して出掛ける必要はありませんね。バレバレです。前回、エリス、一緒について行きたい、と言いましたが単純に豊太郎と表通りを歩きたい、この素敵な人は私の愛しい人なの、と見せびらかしたいくらいの気持ちだったのでは。大事にしまってあった礼装、それを身に纏った豊太郎を見て、エリスはそれが自分の為だったらと思ったのではないでしょうか。この礼装で胸に花を挿し、神の御前で愛を誓えたのなら、と。でも違う。豊太郎は元いた所へ帰ろうとしている、、
「何、金?政治にも興味はない。(私が今なさねばならないこと、したいことは、、母からの遺言である家の再興と学問、)友と会うだけのことだよ(何とかここを足がかりにしなくては)。」紳士的に帽子を取って挨拶し、エリスをレディとして扱う。でもそれはあくまで形式を重んじているからでエリスの愛に応えるものではない。少し汚れた外套に手を通さないのは、みすぼらしく見られたくなくて一瞬でも大臣たちの目に触れぬよう、直ぐに脱ぐことが出来るようにする為なのではと思いました。冷たい北風は容赦なくエリスに吹き付ける。その姿を豊太郎は振り返って見ていたのですよね、北風より冷めた眼差しで。
エリスは妻として豊太郎の世界に入っていきたかったのではないでしょうか。豊太郎の関係者に妻としての存在を認めてもらいたかったのはないでしょうか。この時点では、まだ豊太郎がそうしてくれるはずと無邪気に考えていたのではないでしょうか。
エリスは、体の変調を機に夢見がちな少女から堅実な女に変わりつつあります。自分の今の地位をより確かなものにしたがっています。
一方、豊太郎ですが、豊太郎にはエリスのそんな気持ちがわかっています。わかっているのに、答えてあげられない自分を感じています。
しかし、「北風より冷めた眼差しで。」とありますが、豊太郎の気持ちはそこまで冷たくないでしょう。豊太郎は、何とかエリスの思いに答えてやりたいのです。
すべてが丸く収まるのを願っています。甘いと言えば甘い。豊太郎には、エリスにひどいことなどできません。そんな自分には耐えられません。心優しい優柔不断な男なのです。
冷めていませんか、そうだ、豊太郎は大人ではありませんでした。自分を自分で引き受けられるのならこんなことにはなっていませんね。煮えきらない。結局、自分が可愛いのですね。善なるものである事を手放さない。悪者にはなりたくない。それで生ぬるい、真綿で首を絞めるような一番残酷な事をしている。その事にも気付いてはいるのですよね。やはりエリスの事、好きだけど愛してはいない。豊太郎、そもそも愛を知らない、母から受け取っていた愛も歪んだ愛だった、ということでしょうか。
愛とは、エーリッヒ・フロムが言うように、art(技術)です。技術であれば、それを身に付けるための最大の関心と努力、そして知識がなければなりません。
豊太郎には、それが決定的に欠けています。愛するとは、生き方そのものです。片手間にできることではありません。その覚悟がなければできません。
それを学ぶべき母の愛が歪んでいたのかもしれませんね。その原因が何であれ、豊太郎は愛するとは別の生き方をしています。
結局、豊太郎は自分が一番なのですね。
ただの優柔不断の自己中心的な男なんだなあと思いました。
心の中はこれからの自分の名誉挽回のことでいっぱいです。
エリスと赤ちゃんのことは少しは考えてるのかな。
豊太郎は、本当は自分が一番大切なのです。しかし、そんな利己的な自分を認めたくはありません。そこから目を逸らそうとしています。
エリスにひどいことをする自分には耐えられません。エリスを可哀想だとは思っています。けれども、エリスを愛しているのかと言えば、そうではありません。
エリスのために自分を棄てようとは思いません。どこまでも自分が可愛いだけなのです。