キヨオニヒ街の休息所

 朝の珈琲《カツフエエ》果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴《おもむ》き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截《き》り開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたる業《わざ》なき若人《わかうど》、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸《ぬす》みて足を休むる商人《あきうど》などと臂《ひぢ》を並べ、冷なる石卓《いしづくゑ》の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞《ひとつき》の珈琲の冷《さ》むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに插みたるを、幾種《いくいろ》となく掛け聯《つら》ねたるかたへの壁に、いく度となく往来《ゆきき》する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路《ぢ》によぎりて、余と倶《とも》に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上《しやうじやう》の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。

「二人の「憂きがなかにも楽しき月日」という日常が描かれている。ここには、貧しいながらも幸せな二人の姿が描かれている。「朝の珈琲」とは、簡単な朝ご飯だろう。それが終わると、エリスは踊りのレッスンに行く。そうでない日は家に留まる。豊太郎は、キヨオニヒ街、下町だろうね、その間口は狭く奥行きだけが長い休息所、今の喫茶店みたいなところだね、そこに赴く。店に置いてあるあらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出して、あれこれと新聞記事にする材料を集める。そこは、屋根に沿って作られた天窓から光を採る店で、決まった仕事を持たないフリーターの若者、小金を人に貸してその利子で遊び暮らす老人、証券取引所の仕事の暇を盗んで休憩に来る商人などと、肘を接するように並び、冷たい石作りの机で、忙しそうに筆を走らせ、ウエイトレスが持ってくる一杯の珈琲が冷めるのも顧みないで、空いている新聞で細長い板きれに挟んであるのを、何種類と掛け連ねてある片方の壁に、何度となく往復する日本人を、事情を知らない人はどのように見ただろう。
 要するに、新聞記事を書くために喫茶店に行って、珈琲一杯で粘り、置いてある新聞を片っ端から読んだんだよ。そこは、いろんな身分の人のたまり場になっていた。彼らは豊太郎のことを不思議に思っていたに違いない。また、一時になるとレッスンに行った日には、エリスが帰り道に寄って、一緒にこの店を出て行く、この普通ではないほど身のこなしが軽やかで、手のひらの上でも踊ることができるような少女を、不思議に見送る人もあったに違いない。以上からどんなことがわかる?」
「二人の仲のよさ。言わばハネムーンだね。いいなあ、憧れちゃう。」
「豊太郎は頑張って働いているね。お金が無いから取材活動ができない。その代わりに新聞から生地の材料を探すんだね。」
「この「休息所」は驚くほど、今の日本の喫茶店に似ているね。そこで仕事する豊太郎は、マックで勉強するあたしたちみたいだね。」
「新聞が挟んで掛けて置いてあるのは、今でもホテルなんかでも目にするよね。」
「いろんな人がいる中でも、豊太郎のような東洋人は目立ったろうね。」
「しかも、はっと目を引くような美少女と連れだって帰るんだから。目立たないはずが無い。」
「豊太郎もそれを気にしている。人種的偏見があったんだろうね。」
「だけど、エリスはもう以前のように人目を気にしていない。愛が深まったね。」
 当時の豊太郎の暮らしぶりがよくわかる。「憂きがなかにも楽しき月日」とあるように、豊太郎もこの日々を楽しんでいたのだ。でも、この暮らしに満足できるのだろうか。きっと割り切れないだろうな。豊太郎にはエリートなりの自尊心があるからね。背後に亡くなった母も控えている。さすがのエリスもそこまではコントロールしきれていない。ひたすら今の幸せに浸っているようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    「掌上の舞をもなしつえべき少女」と豊太郎は言っているけれど、その少女の手のひらの上で転がされているのは豊太郎の方。エリスは母の許可も取って一つ屋根の下、暮らす事に成功してすっかり豊太郎を手中に納め、安心しているようです。カフェで待つ豊太郎に手を振りながら走り寄る姿が目に浮かびます。でも、、狭いカフェで豊太郎と隣り合う人たちはいわゆる「商」を業とする人、士農工商の底辺に位置する人たち。おそらく「士」であったろう豊太郎の耳元で母の亡霊が何か囁きそうですね。不特定多数の視線でなくエリスの眼差しだけを見つめていればいいのに。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎にとって、エリスとの暮らしはそれなりに心地よい。人が振り向くほどの美少女に愛されているのですから。貧しくはあるけれど、暮らしも安定したものになってきています。
      この時期は二人にとって最も幸せな時でした。しかし、それに満足しきれない豊太郎。豊太郎は、今は仮の姿だと思い、名誉が回復するのを願っています。
      ただ、願いはしても、具体的な手段は思いつきません。それがまた豊太郎を不安にしています。
      エリスは、自分がそんな豊太郎の気持ちを置き去りにしていることに気が付いていません。豊太郎も自分と同じように幸せなのだと思い込んでいます。

  2. なつはよる より:

    山川先生、中高6年間ご指導いただきありがとうございました。卒業生の一人です。大変ご無沙汰しております。今またこのような形でご指導をいただけることを、大変うれしく思います。お授業をいただいたのは高校1年の時でしたので、それ以外の作品で、先生にお教えをいただきたいことがたくさんあります。どうかこれからもよろしくお願い申し上げます。

    • 山川 信一 より:

      なつはよるさん、ごきげんよう。こちらこそ、よろしくお願いします。それと言うのも、教えることは学ぶことだからです。私はあなたからも学びたいと思っています。
      どうぞこの「国語教室」の中の文芸部員たちのように思ったことは何でも口にしてください。
      すいわさんやらんさんのようにコメントしてくれることを願っています。

  3. らん より:

    ここでもエリスと豊太郎に気持ちがずれていると思いました。
    エリスは豊太郎とのこのささやかな毎日をすごく大事に思っているけれど、豊太郎はエリートだからこの暮らしには満足してないんだろうなあと。
    やっぱりそうなのですね。
    幸せなエリスの気持ちを思うと、悲しくなりました。

    • 山川 信一 より:

      エリスは、貧しいながらも楽しい今の生活に満足しているのでしょう。それはエリスから受ける軽やかな印象にも現れています。
      しかし、豊太郎の気持ちを思いやることまではしていません。インテリのエリートと教養に欠ける踊り子との恋なんですね。

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