彼は優《すぐ》れて美なり。乳《ち》の如き色の顔は燈火に映じて微紅《うすくれなゐ》を潮《さ》したり。手足の繊《かぼそ》く裊《たをやか》なるは、貧家の女《をみな》に似ず。老媼の室《へや》を出でし跡にて、少女は少し訛《なま》りたる言葉にて云ふ。「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬《はふり》、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭《ざがしら》なり。彼が抱へとなりしより、早や二年《ふたとせ》なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を析《さ》きて還し参らせん。縦令《よしや》我身は食《くら》はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目《まみ》には、人に否《いな》とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
「少女は非常に美しい。肌が牛乳のように白い。それがランプの光で薄紅に染まっている。手足がか細く、しなやかで柔らかそうなのは、貧しい家の娘に思えない。老婆が出て行って二人きりになると、少女は少しなまった言葉で言う。豊太郎が少女の言葉をなまっていると感じたのはなぜ?」
「少女の言葉が下流社会の言葉だったからだよ。それに対して、豊太郎が習ったのは上流社会の言葉。だから、なまっていると感じたんだ。」
「それにしても、母親はあっさり二人きりにしてしまうんだね。金が手に入れば、何だってかまわないんだろう。要は、エリスが納得すればいいと思っているんだ。」
「ここから、少女の訴えが始まる。許してください、あなたをここまでつれてきた浅はかな心を。でも、あなたはいい人に違いありません。私のことをまさか憎まないでしょう。明日は父の葬式です。頼りにしていたシヤウムベルヒ、彼は「ヰクトリア」座の座長です。私が彼に雇われて、早くも二年になるので、問題無く私たちを助けてくれるだろうと思っていましたが、人の苦しみにつけ込んで、身勝手なる言いがけするとは思ってもみませんでした。私を救ってください。あなたに借りたお金は少ない給料から返します。たとえ私は食事をしなくても。それも叶わなかったら、母の言葉に従わなくてはなりません。これってどういうこと?」
「座長のシヤムベルヒは、金が無い弱みにつけ込んで、エリスを自分のものにしようとしたんだよ。エリスは若くて綺麗だからね。母もそれに同意している。エリスは、それに耐えられないんだ。」
「それで、次の「その見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。」をどう思う?「媚態」だよ。「媚態」って、〈女が男にこびて、なまめかしくふるまう態度〉のことだよ。」
「エリスは必死だったんだ。だから、女の武器を使っているね。エリスは当然自分が美しいことを知っている。豊太郎の男の部分に訴えているんだ。」
「無意識かどうかは線引きが難しいけど、踊り子なんだから、男の目に自分がどう映るかくらいは知っているはず。ここに、ちょっとした矛盾があるよね。エリスは女を売らないために、女を使っている。」
「今のエリスにはそんなことを考えている余裕はない。それしかなかったんだ。でもさ、人の言いなりになるのと、自分の意志でするのは違うよね。」
豊太郎は改めてエリスの美しさを感じ入っている。そのエリスが必死に助けを請うている。それも男としての自分に訴えている。豊太郎に拒めるはずがない。
コメント
エリスは追い詰められているから必死ですね。
いいこちゃんだと思っていましたが、
女女してて、「こんなことするんだあ」と驚きました。
だって嫌ですものね、座長の言いなりになるのは。
エリスも必死です。
こんなエリスを見たら、豊太郎はもうほっとけないですよ。
落とされるしかないですよね。
きっと、先生もエリスに落とされちゃいますよね。
男の人はこういうのに弱いんだろうなあ。
私はともかく、豊太郎はまだ落ちてはいません。一線を引いています。
エリスの話を聞いて、道義上放っておけないと思っています。
ただただ、見返りを求めることなく、エリスを救おうとしています。
今まで上司の、母の「手足」として、彼らの満足の為に役に立って来た豊太郎、でも今、豊太郎が豊太郎として自身の意志を持って彼女を「救う」となれば、これは拒否できないですね。独立した一個としての自分の価値を求められている。
父の死と同時に生活が立ち行かなくなったエリス、二年前から劇場勤めをしているところから見ると、父の病気で収入が途絶え、働きに出たのでしょうか。長患いで治療費も嵩んだ末の父の死、そんな切羽詰まった状況で豊太郎と出会った。見ず知らずの東洋人、でも彼はクィーンズ・イングリッシュを操るエリートで身なりも整って態度も紳士的。さぁ、どうする?今の状況を乗り切る為に、意に沿わない相手を押し付けられるのなら、東洋人であってもこの人なら自分を無碍に扱うことはないだろう、、貧しいながらも仕立て屋のマイスターの父の元に育った娘としてのプライドもあったでしょう。2人とも、自分の意志を持って葛藤の中、選択しようとしています。
豊太郎の思いもエリスの思いもその通りです。ただし、どちらも自分の行為に間違いはないと信じています。
「葛藤」と言えるほどの迷いもないでしょう。