非常に微妙な点において欠ける

 袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随《したが》って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡《およ》そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然《ばくぜん》と次のように感じていた。成程《なるほど》、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処《どこ》か(非常に微妙な点に於《おい》て)欠けるところがあるのではないか、と。

 あたしに戻った。ここには、袁傪の気持ちが書かれている。注目する場面だ。
「李徴が暗唱している詩は、約三十編もあったんだ。自分の作った詩とは言え、さすがに頭がいいね。数百の中で選りすぐりの自信作なんだろうね。李徴は「作の巧拙は知らず」と言って謙遜しているけどね。純子、「格調高雅、意趣卓逸」の意味は、調べてあるよね。」
「はい。調べてあります。〈詩の調子が気高く雅やかで、言わんとするところが抜きん出て優れている〉という意味です。」
「そうだね。ところが、袁傪は、李徴の詩人としての才能の非凡さに感嘆しながらも、作品の出来には今一つ心を動かされていない。このままでは、第一流の作品とはなり得ないないと思っている。その理由は何だと思う?「何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」と言っている。」
「この「非常に微妙な点」が何かは、わからない。なぜなら、三十編の詩が示されていないからね。たぶん、袁傪にもはっきりとはわからないはずだよ。だから、書かれていないんだ。でも、その理由なら想像できる。李徴にとって、詩が自分の才能を示すための手段に過ぎなかったからだよ。」
「そうだね。李徴はこう言っていた。「自分は元来詩人として名を成す積りでいた。」詩より名を成すことの方に関心が行っているよね。」
「つまり、伝錄は、詩を残したいためではなく、自分の存在を残したいからだったんだ。」
「と言うことは、李徴は詩を愛していなかったんだね。止むに止まれぬ詩的感動によって書いていたわけじゃないんだ。自分の才能を見せびらかす手段にすぎなかったんだ。これじゃ、いくら詩人としての素質が第一流であっても、いい詩は書けない。」
 李徴はどこまでも自分がかわいいのだ。自分以外の何かを愛するってことはないんだろうか?他への素朴な人間的な感情は持っていないんだろうか?自己中心的な人間に人の心を動かす詩が書けるはずがない。愛するって、自分を棄てるという一面もあるからね。李徴にはそれが出来なかった。じゃあ、あたしには出来るのかな?あたしは何を愛しているのだろう?李徴を批判するのは簡単だけど・・・。

コメント

  1. すいわ より:

    詩歌でも絵画でも音楽でも、表現である以上、鑑賞する人が共感できるかどうかというのは大切な要素だと思うのです。芸術に於いてよくある事ですが完璧なテクニック、でも、完璧なだけでつまらない。逆に何だこれは?と言うものでも味がある、いわゆる下手ウマなものに心揺さぶられる。李徴の詩作はA Iに一定条件を与えて好まれる言葉やヒット曲を分析し索出した、そうした完璧さ、なのでしょう。詩が目的でなく、詩が手段。相手の胸に響かないわけです。相手の共感を得て話を聞いてもらう為に巧みに誘導していた李徴、読み手の共感を得られる詩作が出来ないのは皮肉なものです。虎になる前の数百の詩作、誰とも共有する事なくひたすら自己完結していたのではないでしょうか。言葉の海に飲み込まれて溺れて息が出来なくなりそう。
    袁傪、部下に李徴の詩を書き取らせていますが、李徴の詩だと思っているのは袁傪だけですよね。部下は虎の詠った詩と思ってしまう。虎にしては随分立派な詩だ。でも、グッとこない。まぁ、心のない獣の詩だ。人の心には響かずとも無理はない。「高名な李徴」になりたかったでしょうに「摩訶不思議な虎」と世間には伝わってしまいそう。

    • 山川 信一 より:

      評論家の山崎正和氏が先日新聞で次のようなことを言っていました。自己主張と自己表現とは違う。主張は自己拡張が目的であり、表現は控えめで謙虚であると。
      この基準に当てはめれば、芸術は自己表現でなければなりません。その意味で、李徴の詩は芸術になり得なかったのでしょう。自己拡張の道具だったのです。これでは人の心を打ちません。
      ただもしかすると、李徴にはそんなことはわかっていたのかもしれません。いえ、多分わかっていました。だからこそ、虎になってまで詩に固執する姿をアピールしたのです。つまり、自分が悲劇の詩人であることを認めてほしいのです。李徴の目的はここにあります。

  2. らん より:

    先生、よくわかりました。
    李徴は詩を愛してなかったんですね。だから、人の心に響かない詩だったんだと。

    芸術って、ピアノを弾いたり、絵を書いたりすることって、自分のことを表現することですよね。
    音色や絵は自分の一部です。
    愛するものです。
    それに当てはめたら李徴のことがよくわかりました。
    形だけの人の心に響かない詩はつまらないです。

    • 山川 信一 より:

      らんさんも何か自己表現の方法を持っているのですね。ピアノでしょうか?絵でしょうか?
      いずれにしても、その経験に照らし合わせてみれば、芸術的表現は才能と技巧だけではダメだと言うことがわかりますよね。
      文学作品の言葉の解釈は、自分の経験を元に、ただし単に当てはめるだけではなく、その意味を吟味していくことが必要です。

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