老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾かれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く。」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ捻じ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
あたしの番だ。ここは比喩の使い方が面白い。
「「まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。」とありますが、老婆に関してどんなことがわかりますか?」
「「弩にでもはじかれたように」という直喩が面白い。「弩」は遠距離攻撃に使う大型のはじき弓だね。老婆をその石にたとえている。」
「そうすると、老婆が思ったよりも機敏であることを表しているんだね。やはり、老婆はただ者ではなかった。普通のおばあさんなら、その場で腰を抜かすとかで、こんな動きはしないもの。」
「次の段落は下人が老婆を取り押さえる様子が描かれています。何か気づくことはありませんか?」
「老婆がかなり抵抗していることがわかるね。老婆は弱いと思っていたけれど、意外に手強い。」
「やはり、下人の予想どおり悪人なのかもしれない。」
「それでも、「勝敗は、はじめからわかっている」とあるように、捻じ倒すことができた。これは力の違いを強調している。」
「ここで、「鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕」という直喩が使われています。この比喩からわかることはありませんか?」
「下人と老婆の力の差が、人間と鶏ほど大きかったことを示している。」
「この時点で、老婆は、猿ではなくて、無害な鶏に変わったことがわかる。」
「下人が老婆を捕まえ捻じ倒す様子は、人が鶏を捕まえる様子を下敷きにしている。あたしの小学校では鶏を飼っていたけど、掃除の時に捕まえなくっちゃならなんだよね。まさにこんな感じだった。」
「作者は、人が鶏を捕らえる様子をメタファーに使ったんだね。その経験のある読者はそれをベースにその様子を想像して読むことができる。この表現法は何かに使えそうだね。」
老婆が猿から鶏に変わった。と言うことは、下人の老婆に対する評価が変わったことを意味する。たとえが霊長類から鳥類になった。人類から遠ざかったね。そのことで、それまでよりも侮っていることを表しているんだ。
コメント
老婆はただの老婆じゃありませんね。動きが機敏です。
さすが只者ではないと思いました。
それにしても、死骸の中をふたりで走り回っている様子を想像するとぶるっときます。
猿から鳥に変わりましたね。
この変化も見逃せませんね。
確かに、死骸の中を逃げ惑う老婆を追いかける下人の姿を想像するとゾッとしますね。
ついに無言のままつかみ合う様なども、恐ろしいばかりですね。
比喩はいろいろなことを伝えます。人をたとえるときなど、気をつけましょう。
下人、初めて声を発しました。下人の存在感が一気に増し、「羅生門」の舞台の傍観者でなく、悪の舞台の役者の一人として登場したよう。老婆の俊敏な動きも意外性があり、死骸からの略奪がこの時が初めてでなく繰り返しこんな事を続けてきたであろう事を想像させます。出来心ではない。下人はより老婆を蔑む気持ちが増したことでしょう。鶏の脚という、いかにも骨と皮の貧相な例えが下人の老婆に対する優位性を物語っているようです。まるで猫が鼠をいたぶり捕まえる様子を見ているようです。
下人が初めて声を出し、悪の舞台の役者として登場したというご指摘、納得しました。
急に動きが出ましたね。第二部が四分構成であれば、ここは承に当たりますね。
「猫が鼠をいたぶり捕まえる様子」とありますが、それではイメージがずれます。
芥川の表現どおりに人間と鶏の関係で読みましょう。敢えてずらす必要がありません。