セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
若葉先輩は、前置き抜きでいきなり話し始めた。
「メロスは想像のセリヌンティウスに語りかける。自分を正当化して、いい訳を言う。自分に都合の良い話をでっち上げる。自分を責め立てることで〈悲劇のヒーロー〉を気取る。次には、「もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか」と開き直ろうとする。更に、「人を殺して自分が生き延びる。それが世界の定法ではなかったか。ああ、なにもかもばかばかしい。」と、虚無的になる。終いに「どうとも勝手にするがよい。やんぬるかな。」と投げだし、まどろんでしまう。現実から逃避する。
これは人間が堕落していくプロセスだと思う。太宰は、人間の心の弱さをよく知っていたんだ。実に細やかに表現している。でもさ、あたしはメロスをこれ以上非難できないな。何か身につまされる。思い当たることがいくらでもあるもの。実はあたしね、この学校が第一志望じゃなかったんだ。あんなに頑張ったのにダメだった。何もかも馬鹿馬鹿しいって思った。その時のことを思い出したんだ。」
「これを読んで、思い当たる部分が無い者はいないに違いないわね。都合のいい話をででっち上げる。開き直る。虚無的になる。逃避する。人の心って、弱いのよね。そうそう、障害だけど、補足するわ。第六の障害として、体力を上げるのを忘れたの。心の弱さは、第七の障害ね。」と真登香班長がまとめた。
「若葉先輩は、どこが第一志望だったんですか。あたしは、うちの学校が第一志望でした。だから、受かった時凄く嬉しかった。でも、そうじゃない人もいるんですね。だけど、あたしはお陰で若葉先輩に会えた。あたしにとっては、先輩が第一志望に落ちてくれて良かったです。」とあたしは、正直な気持ちを伝えた。
「うん、そうだね。昔の話だよ。」と少し寂しそうに笑った。
「メロスは、サナギの中にこもってしまったんですね。と言うことは、羽化するってことですよね。」と美鈴が言った。
「人間は停滞することもあるからね。メロスもじっと回復を待っているんだよ、きっと。前に美鈴が気持ちは不安定なものと言ったよね。その通りで、何かが変われば気持ちも変わる。メロスは、自分が思っていたような理想的な人間じゃないって悟ったんだ。これは以前とは違う。ならば、何かが変わってもおかしくない。」と若葉先輩が意外なことを言う。
そうかあ、そういうこともあり得るんだね。メロスは、自分の弱さを初めて認めたんだ。何かが変わるかもしれない。
コメント
王に耳打ちされた言葉がまるで催眠のようにメロスの心を蝕み、張り巡らされた罠に嵌まり込んで、もがけばもがくほど身動き出来なくなってしまう。生まれて初めて自分の力の及ばない事に遭遇し、身体は動かないのに心の動揺は止まらない。「おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。」メロスは自分を疑い、自分に嘘をつこうとしている事に気付けるのか、、「人間が堕落していくプロセス」を体感するにしても残酷すぎますね。
太宰治は、人間がどんな風に堕落していくのかを経験的に思い知っていたのでしょう。
だから、こんな風に見事に再現できたのです。わかっているのに墜ちるところまで墜ちていく、それが人間なのだと。
この部分だけは、太宰のほかの作品の香りがすると感じました。時間に限りがあるのに、眠っている! イライラするほど長く感じました。現在の作品やドラマなどで、「あ、これメロスの翻案だ!」と感じるような場面があっても、主人公はいつも強いままで、迷ったりすることはありません。太宰だけが、人の心の弱さを描いています。
それでも、メロスはここからハッピーエンドへ導かれます。そこがとてもうれしいと思います。一直線の成功ではないだけに、より感動が深くなると感じます。
また、もしこの場面がなければ、最後に殴り合って抱擁する感動的な場面は生まれませんでした。行き当たりばったりのメロスを、太宰は、もしかしたら、計算しつくして書いたのかもしれないと思います。
太宰治は、人の弱さを知っています。彼自身、弱い人間として生きています。しかし、それが太宰の強さです。東大教授の安藤宏氏はそれを「弱さを演じる強さ」だと言います。
『走れメロス』は、そんな太宰の強さが表れた作品かもしれませんね。