自分を追い込む

 今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
 花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」
 花婿は揉み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

 今日は、真登香班長の番だ。きっと読みが深い。凄く楽しみ。
「花嫁と花婿に別れの挨拶をしてるわ。まず気がつくのは、二人へのお祝いの言葉の長さの違いよね。花嫁の方がずっと長い。これは、愛情の差ね。だから、当然妹への方がずっと長い。そして、気づくのは「おまえ」という言葉がこの中に六回も出てくること。これは、メロスの妹に対する愛情が表れているわ。一言一言に思いを込めている感じがする。しかし、優しいけれど諭すような命令口調なの。これは兄と言うよりは父親のそれね。メロスに取って、妹は娘でもあることが再確認できるわ。一方、挨拶にこと寄せて、未練の情を断ち切ろうとしているわね。「おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」がそれ。花婿に対する言葉も同じね。「もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」と言うことで後戻りできないようにしているの。しかも、二人への言葉は、遺言になっているのよ。たとえば、「私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。」は変よね。これからも生きていくつもりなら、メロスにとっても、羊は必要だから。でも、花婿はすっかり舞い上がってしまい、そのおかしさには気づいていないの。挨拶を済ますと、また寝るわ。ここでは「死んだように深く眠った」となっているけど、徹夜して議論をしたのだから相当眠かったことがわかる。それで、少し寝坊する。薄明の頃間が覚めたとあるから、前回よりは出発時間が遅くなった。でも、間に合うことを確かめてほっとする。「あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう」と言うのは王に対する対抗心の表れね。メロスの意地から出た言葉ね。意地もプライドの一種だけど、人の行動を支配する上で、強い力を持つわ。これもテーマの一つかな。「メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。」とあるけれど、これは勢いをつけて出て行こうとする意志のあわられ。決心が鈍らないようにしたのね。「ぶるんと」という擬態語がメロスの腕の太さを表しているみたい。」と真登香班長は、いつものように満遍なく発表を終えた。凄くよくわかった。
「ここで面白いのは、相手を利用して自分を励ます方法があるってことだね。真登香さんが指摘した言葉だけじゃなくて「おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。」も明らかに自分を戒めるために追い込む言葉になっているよ。メロスは自分だけでは断ち切れない未練の情を二人を利用して断ち切ろうとしているんだ。」と若葉先輩が補足した。
「「矢の如く」で矢のようにじゃないんですね。なぜですか?」と美鈴か質問した。 「メロスの決意の固さを表現してるんだよ。」とあたしが答えてやった。
 プライドが強く行動を支配する、メロスはそれを知っていた。だからそれを利用して、自分を追い込んだんだね。プライドは侮れないな。

コメント

  1. すいわ より:

    班長の言う通り、始めの「おめでとう」がなければ、今まさに死にゆく人の遺言としか取れない言葉が連なっています。「未練の情」の回で「…ここにいたい、と思った」「…暮らして行きたいと願った」「ちょっと一眠り…、と考えた」、いずれもメロスはその意思をみずからの内側に収めていましたが、今回、メロスが成し遂げなくてはならない事、自分の信念、言葉にしています。誰かに話す体で思考を言語化する事で自分の中ですっきりと整理されることってありますね。言葉にはそれだけの力がある。「そうして笑って磔の台に上ってやる。」信念を貫くために死をも恐れぬ決意、プライド、侮れません。
    「少しの寝坊」と「いくぶん小降りになった雨」がさて、後にどう響いてくるでしょう。初夏のイタリアの日暮れだと、日本の時間より遅くはありそうですが。

    • 山川 信一 より:

      メロスのお祝いの言葉は、遺言でもありました。こうした形で言葉を残したんですね。
      しかも、自分が王に約束したことをどうしても実行しなくてはならないようにするものでもありました。
      私たちも、日常何重かの意味を込めて言葉を使っています。

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