昔、男、みそかに通ふ女ありけり。それがもとより、「今宵夢になむ見えたまひつる」といへりければ、男、
思ひあまりいでにし魂のあるならむ夜ぶかく見えば魂結びせよ
昔、男がこっそり通う女がいた。その女のもとから「今夜夢にあなたがお現れになりました。」と言ってきたので、男が、
〈あなたを思うあまりに出て行った魂があるのでしょう。今夜また夜更けになって私の魂が現れたなら、しっかりと魂結びにして逃がさないようにしてください。〉
当時は、相手を恋しく思うと、魂が体から抜け出して相手の夢の中に現れると信じられていた。しかし、それを放っておくと、元に戻らないこともあるので、「魂結び」はそうならないためのまじないである。
恋は、そもそも忍んでするものであるけれど、殊更「みそかに」と言うのだから、殊更逢いにくい事情があったのだろう。女が「たまひ」と敬語を使っている。しかも、女は歌を詠んでいない。女がまだ若く、よほどの年の差があったとみたい。
女がこう言ってきたのは、自分のことを思い出して欲しいからある。よほど逢いたくなったのだろう。それを受けて、女の夢の内容を肯定しつつも、男は女に教え諭すような歌を歌っている。また、「魂結びせよ」という命令口調も効果的である。女は命令されたい時もある。男はそんな女の心理を知っている。男は大人の余裕を見せて、女を安心させている。
コメント
「若紫」ですね。逢いたい気持ちを歌にする術も知らない幼さが可愛らしいのでしょう。『夜ぶかく見えば魂結びせよ』、しっかと結んで離さないようになさい、と強い調子で言っておいて本人が逢いに行くのでしょうね。女の喜ぶ顔が目に浮かびます。素直なうちに教育して自分好みの女に育てる、気の長い話です。男の人の描く理想なのでしょうか。でも現実は百八段が優勢のようで。それでも夢は見ていたいもの?
紫式部は、この段に「若紫」のヒントを得たのかもしれませんね。『伊勢物語』は、恋愛ドラマの題材の宝庫です。
こんな短く簡潔な表現なのに、いえ、だからこそ、想像力が刺激されてあれこれ思い浮かびます。
男の理想はいつの世も変わらないようです。現実にはかないませんが。