昔、男、逍遥せしに、思ふどちかいつらねて、和泉の国に二月(きさらぎ)ばかりにいきけり。河内の国、生駒の山を見れば、曇りみ晴れみ、立ちゐる雲やまず。朝より曇りて、昼晴れたり。雪いと白う木の末にふりたり。それを見て、かのゆく人のなかに、ただひとりよみける、
きのふけふ雲の立ち舞ひかくろふは花の林を憂しとなりけり
昔、男が物見遊山(「逍遙」)するために、気心の知れた仲間(「思ふどち」)を連れ立って(「かいつらねて」)、和泉の国に二月ほどに行った。河内の国の生駒山を見ると、曇ったり晴れたり(「曇りみ晴れみ」)、湧き上がり低く立ちこめる(「立ちゐる」)雲が絶えない。朝雲から曇り、昼には晴れていた。雪がたいそう白く梢に降っていた。それを見て、あの旅ゆく人の中で、ただ一人詠んだ
〈昨日今日と雲が立ち舞って景色を隠し続けるのは、なんと雪の林を嫌だと思って隠すからであった。「~は・・・けり」は発見を表す。〉
前段に続いて、気心の知れた友との旅の話である。恋の骨休めが続く。せっかく旅に出たのに、期待に反して天気がよくないこともある。それをどうカバーするかも歌による。気の利いた歌によって、気分も変わる。何事も見方一つなのである。
コメント
快適な旅をするには不向きな時季、案の定、雪が降ったり止んだり、足元も悪い、気分が塞いでくる。そんな時に、一人呟く人がいる。「あぁ、この雲が出るのは美しい人を御簾の向こうに隠すが如く、六花の咲き乱れる美しい風景を見せ惜しんでの事なのだなぁ」自然、皆、視線を上に向け、目の前に広がる雪景色に気付く。こんな人が旅の道連れにいたら、旅の楽しみも格段に増すというものですね。
「あぁ、この雲が出るのは美しい人を御簾の向こうに隠すが如く、六花の咲き乱れる美しい風景を見せ惜しんでの事なのだなぁ」の解釈は面白いのですが、
「花の林を憂しとなりけり」の解釈としては無理があります。この季節、雪が積もっているのは、いやなのです。如月はもう春なのですから。
雲も我々と同じ気持ちなんだと思っているのです。
すっかり間違えました、そうなのです、「花の林を憂しとなりけり」がどうもうまく捉えられず、花の林?雪の積もる林?何だかわからない、と。なるほど、如月、今なら新年を迎えてひと心地ついた頃、そろそろ梅の花でもほころぶ頃かと期待して出掛けたのですね。目に映るは雪ばかり、がっかりした事でしょう。納得出来ました。
雲も男たちと同じ気持ちなのですね。
友達が増えたようでなんだか嬉しくなりました。
雲も一緒に「もう雪はいやなんだよう」と言ってるようで、ほっこりしました(^ ^)
旧暦ですから、現在とは季節がひと月半くらいずれているでしょう。と言うことは、今なら3月下旬から4月上旬です。
こんな季節に雪が降り、木に花を咲かせているのは鬱陶しいのです。
この感覚は、雪に少ない地方の人には、たとえば「ホワイトクリスマス」をありがたがっている地方の人には、わかりにくいかもしれませんね。
雪がよく降る国の人には、雪はうんざりなのです。
しかも、京都の貴族にとって、季節は暦通りに移ろうことが期待されています。