昔、年ごろ訪れざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人の言につきて、人の国なりける人につかはれて、もと見し人の前にいで来て、もの食はせなどしけり。夜さり、「このありつる人たまへ」とあるじにいひければ、おこせたりけり。男、「われをばしらずや」とて、
いにしへのにほひはいづら桜花こけるからともなりにけるかな
といふを、いとはづかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」といへば、「涙のこぼるるに目も見えず、ものもいはれず」といふ。
これやこのわれにあふみをのがれつつ年月経れどまさりがほなき
といひて、衣ぬぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらむともしらず。
昔、長年訪れなかった女が、心が賢くなかったのだろうか(「けむ」は過去推量の助動詞。挿入句。)、当てにならない(「はかなき」)人の甘言に乗せられて、地方にいる人に使われて、元の夫(「もと見し人」)の前に出て来て、食事の給仕などをしたのだった。夜になり(「さり」は〈その時期になる〉)、「この給仕食していた(「ありつる」)人を私のところに寄こしてください。」と言ったところ、主はなんなく寄こしたのだった。男は「私を知らないか。」と言って、
〈かつての美しさはどこに行ってしまったのか桜花よ。すべてを削ぎ落としてしまった(「こける」)殻ともなってしまったことだなあ。〉
というのを、たいそう恥ずかしいと思って、答えもしないでいたのを、「なぜ答えもしない」と言うと、「涙がこぼれるために目も見えないし、ものも言えない。」と言う。
〈これがまあ、私と暮らした近江を逃れつつ(「あふみ」は〈逢ふ身〉と〈近江〉を掛けている。)長年経ったけれど、当時よりまさった顔をしていない女の姿か。(見る影もありませんね。)〉
と言って、着ている着物を脱いで与えたけれど、捨てて逃げてしまった。どこに行ってしまったのだろう、今どこにいるのかわからない。
第六十段に似た話である。これも、男の立場からの話である。男が長年訪れなかったために、他の人について行ったのに、〈心が賢くない〉と言う。この男は一層残酷である。女を徹底的に責め立てている。歌をその道具にしている。歌は人を傷つけるにも効果的な道具なのである。何もそこまで言わなくてもいいのではないか。第六十段との違いが際立っている。別の男の話なのか。同じ男なら、再び裏切られて、さぞかし恨んでいたのだろう。いずれにしても、『伊勢物語』は、心変わりした女には、実に厳しい。
コメント
女の様子がまるで幼女のような心許なさです。男が執拗に女を責め苛む言葉を浴びせていますが、これに歌の一つも返せるような女であれば、ここまで言われっ放しにはならない筈。それに加えて「このありつる人たまへ」という申し出に、今の主人が軽々に女を行かせる辺り、今現在の女の置かれている立場も芳しいものではないように思えます。そんな様子を汲んでか、男は着物を与えようとはするけれど、哀れですね。六十段の男とは別人のように思います。六十段の男はかつて愛した故の恨み言、この段の男はプライドを傷つけられた腹いせ、くらいの違いが歌に出ているように思いました。
本当に身も蓋もない話です。ただ言えることは、男を見る目を持っていないと不幸になるということです。
「心かしくやあらざりけむ」と言うのはそういうことなのでしょう。
現代でも同じです。女は男を見る目を養いましょう。
ひどい話ですね。何て思いやりのない男なのでしょう。女がとてもかわいそうです。
恥ずかしく悲しくなって逃げだしてしまったのですね。
でもまだ未練があって女をいじめたのでしょうか。愛と憎しみは紙一重だから。
心かしこくならないと女はいけませんね。
こんなひどい人が前の夫だったのかと女は幻滅したと思います。
男は、女の愚かさが許せなかったのです。これが高貴な男の妻になっていれば納得できたのかもしれません。
自分が低く評価されたことに耐えられなかったのでしょう。プライドって怖いですね。