第十六段 ~その二 友の援助~

 思ひわびて、ねむごろにあひ語らひける友だちのもとに、「かうかう、いまはとてまかるを、なにごともいささかなることもえせで、つかはすること」と書きて、奥に、
 手を折りてあひ見しことをかぞふれば十といひつつ四つは経にけり
かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる。
 年だにも十とて四つは経にけるをいくたび君をたのみ来ぬらむ
かくいひやりたりければ、
 これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ
よろこびにたへで、また、
 秋やくるつゆやまがふと思ふまであるは涙のふるにぞありける

 そこで、思いあぐねて、親しく何でも語り合っていた友達の元に〈このように、これでお別れだと言って(「いまはとて」)妻が家を出て行く(「まかる」)のに、どんなことも少しのこともしてあげることができず、家を出す(「つかはする」)ことになってしまいました。〉と手紙を書いて、奥に歌を書く。その歌、
 指を折って妻と暮らした年月(「あひ見しこと」)を数えると、十年と言いながら、それを四つは経てしまいました。(四十年も一緒に暮らしていました。)
 それを読んだ例の友達が(「かの」は例の、ご存じのの意。これまで出てきた〈あの男〉である。)これを見て、たいそう同情して、夜具まで贈って(夜具は最低限の生活用品であるから、相当貧乏だったのだろう。)、それに添えて歌を詠んだ。
 夫婦生活の年月でさえも四十年は経たのだから(これだけ長きにわたって、一緒に暮らしてきただけでも素晴らしいのに、それだけでなく)、その間奥さんはあなたを何度も頼りにしてきて今に至っているのだろう。
 紀有常に対する気遣いにあふれた歌である。男は、紀有常が妻に愛想をつかれてさぞかし傷ついていると思ったのだ。それでこう慰めたのである。
 男がこう言いやったので、紀有常が返す。
 これがまあ、あの有名な(「これやこの」)天の羽衣か。いかにもいかにも(「むべしこそ」)あなたがお召し物としてお召しになっていたのだなあ。(「たてまつり」はお召しになる。)
 有常は、贈り物の素晴らしさとそれを贈ってくれた男の思いやりに感謝している。喜びに堪えず、更にこう歌った。
 秋が来たのか。露が間違えて下りたのかと思うまで、袖が濡れているのは、あなたの対する感謝の気持ちで涙が溢れ出でいるのでした。
 さすがに、優雅な歌である。繊細な心と歌の巧みさがうかがわれる。ただ、江戸時代の川柳、「唐様で売家と書く三代目」を連想する。風流心だけでは生きて行かれない。
 それにしても、男女の仲ははかないものである。同性の友情には叶わない。男女は結びついても、最後は離れていくものなのである。これも現実。恋はそれを覚悟してすべきものでもあるということだ。

コメント

  1. すいわ より:

    まさかの友、登場しました!ビックリです。
    数回前のコメントで、源氏物語は小説よりの物語、伊勢物語は物語、と解説頂いたのが実感できました。筆者も、まさかこんなに時を隔てた人が、自分の書いたものを読むとは思わずに書いているでしょうに。人という生き物の普遍性を客観的にとらえたものだからこそ、時を超えた私達の心をもつかむのでしょう。
    十六段は恋、というより情という愛に感じ入りました。

    • 山川 信一 より:

      もし、『伊勢物語』の作者が私の想像どおり紀貫之なら、遥か時を経て読まれることを想定して書いたでしょう。
      だから、それを踏まえて、恋(情や愛を含めて)の教科書を書いたのだという仮説を元に読んでいます。

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