最早《もはや》十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔《ほとり》の瓦斯燈《ガスとう》は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて擦《さす》りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
足の運びの捗《はかど》らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑《にぎ》はしかりしならめど、ふつに覚えず。我脳中には唯々我は免《ゆる》すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。
「夜更けの街を帰ってくる様子が書かれている。ガス灯が寂しい光を放っていると見えたのは、豊太郎の心の反映だろう。すっかり凍えてしまったので、歩くのも覚束ず、周りの風景をも目に入ってこない。ただただ罪悪感に苛まれるばかり。これってどう思う?」
「豊太郎はいつでも周りのなすがままだね。今度は自然に身を任せている。現実逃避したいんなら、自殺すればいいじゃない?それもできない。なんでエリスのところに帰ってくるの?」
「甘いよね。一体これまで何を学んできたんだ。これが日本一の優等生のなれの果てなんだ。」
「何が「我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。」だよ。自分に酔っているんじゃないよ!」
天方伯に夕暮れに招かれたのだから、公園にいたのが十一時までとすると、ベンチには二~三時間いたようだ。体が凍えているので、歩みがのろくクロステル街まで来るのに一時間も掛かっている。これで自分を罰しているつもりなのか。結局こうなることを望んでいるのだ。それでもエリスのところに帰ってくるのは、更に自分を惨めな目に遭わせたいからではないか。まさに崩壊の愉悦を味わっている。自分をドラマ的人物に仕立て上げている。偽の悲劇を作り出そうとしているのだ。
コメント
大臣からの呼び出しで出掛けて行って、この格好で帰宅したら誰だって「どうしたの?」と尋ねざるを得ません。悪い事があったであろう予測を抱かせて相手から口火を切らせる。「免すべからぬ罪人」と言って欲しいという事なのか、、自分から別れてくれと言うのでなく、罪人の自分をエリスが捨てるように、エリスの口から別れの言葉を引き出させようとしているのか?だとしたら豊太郎の小細工は悲劇どころか、とんだ喜劇です。優しさの裏側に貼りついた虚栄心がそこまで強いとは思いませんでした。やる事が女性的、まるで母の亡霊に取り憑かれているようです。
豊太郎は一体どうしてほしいのでしょう?彼の望みは何なのでしょう。多分彼自身わかっていないでしょう。
豊太郎にとって、最も大事なものとはなんなのでしょう?何を守ろうとしているのでしょう?それは守るほどの価値があるのでしょうか?あるとしたらなぜでしょうか?
それを突き詰めて考えていません。だから、こちらで考えてあげたのです。それは「虚栄心」であると。「虚栄心」のためには、最愛の人も犠牲にできるのです。
では、「虚栄心」を何より大事にする生き方は誰に学んだのか。それを教えたの母です。母にそう考えさせたのは、日本社会です。母は俗物ですから。
「虚栄心」による悲劇は、悲劇と言えるのでしょうか?むしろ、喜劇ではないか。回避可能であり、その愚かさに気が付いていないのですから。