人材を知りてのこひにあらず

 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概《おほむ》ね平滑なりしに、轗軻《かんか》数奇《さくき》なるは我身の上なりければなり。
 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡々驚きしが、なか/\に余を譴《せ》めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢《をは》りしとき、彼は色を正して諫《いさ》むるやう、この一段のことは素《も》と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活《なりはひ》をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦《また》伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強《しひ》て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者《きよくひもの》なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦《すゝ》むるは先づ其能を示すに若《し》かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是《こ》れその言《こと》のおほむねなりき。

「食卓では、豊太郎の方が多く話した。それは、相沢の人生は概ね順調で、不遇不幸であったのは豊太郎の方だったから。豊太郎は隠し立てすることなく、不幸な事の次第を語った。それを聞いて相沢は何度も驚いたが、中途半端に豊太郎を責めようとはしないで、かえって他の平凡な留学生仲間を罵った。ここからどんなことがわかるかな?」
「相沢は、自分が豊太郎の理解者であり、味方であることをわからせようとしている。自分を信用させようとしているんだ。」
「それは素振りかな?それとも本当に理解しようとしているのかな?」
「これは、単なるポーズとは言えない。相沢は、口先だけで人を騙せるとは思っていない。どこまでも、本音で語ろうとしている。だから、これは相沢の本心だ。」
「そうだね。じゃ、先に進むね。しかし、相沢は、話が終わった時、厳しい顔つきになって忠告するように次のように言った。この一件は、もともと君の生まれながら弱い心から生まれたことなので、今さら言っても仕方ない。とは言え、いつまでも一少女への情を引きずって、目的の無い生活を送るべきではない。今は天方伯も、ただ君のドイツ語を利用しようという心だけだ。自分としても、天方伯が当時の免官の理由を知っているので、強いてその心を動かそうとはしない。それは、天方伯が心の中で偽って人を庇い立てする者だとお思いになるとしたら、友達に利がなく、自分に損があるからだ。人を推薦するには、まずその能力を示すのが一番だ。これを示して、伯の信用を得なさい。また、その少女との関係は、たとえその少女の思いが真実であっても、たとえ男女の仲が深くなっているとしても、才能にふさわしい恋ではない。男女の馴れ合いという一種の惰性から生じた付き合いである。心を決めて断ちなさい、と。
 以上が相沢の話のあらましね。さて、ここからどんなことがわかるかな?」
「相沢は大人だよね。と言うか、話のわかる教師みたい。まず「わかるわかる」と理解を示し、相手を信用させる。その上で、自分の考えを言って認めさせるんだ。表情の変化も見事だよね。それまでニコニコしていて、急に真面目な顔をする。これじゃ、逆らえないよ。あたし、こういう先生を知ってるよ。」
「でもさ、相沢の言ってることは正しくない?理にかなっているよ。豊太郎のことをよく理解している。間違ったことは一つも言っていない。豊太郎を曲解している訳ではない。」
「そうかな、エリスの立場は無視しているよ。すべて豊太郎サイドから見ている。「たとえその少女の思いが真実であっても、たとえ男女の仲が深くなっているとしても、才能にふさわしい恋ではない。」が気に入らない。恋ってそういうものじゃないよね。才能とか関係なくない?」
「相沢にとって恋は人生のおまけみたいなものなんだ。それは、ほんの一時の感情に過ぎない。人生を賭けるに値しない。人生の目的は別にある。」
「それって何よ?」
「自分の才能を生かすことだと考えているんだ。」
「そうかあ、今一つ納得できないけど、反論もできない。」
 相沢は実に正確に豊太郎のことを分析している。決して、手前勝手にねじ曲げた理解じゃない。忠告も一方的な押しつけじゃない。むしろ、豊太郎の今の思いを代弁している。これは豊太郎の本音であって、それを口にしてくれたのだ。相沢が保証してくれたのだから、豊太郎は有り難かっただろう。しかし、その一方で、何か割り切れないものも感じている。しかし、それが何なのかはわからない。だから、反論することもできない。
 私も豊太郎が大切な何かを忘れているのではないかという気がする。

コメント

  1. すいわ より:

    相沢は豊太郎が免官になった経緯を人伝の噂でなく豊太郎の口から直接聞く事で彼の現況を正確に把握したかったのでしょう。それは一重に有能な豊太郎をこの苦境から救う糸口を掴むため。極めて冷静に理性的に第三者の立場からアドバイスをしています。豊太郎が手に入れられない“父”的助力が図らずも友から差し出され、豊太郎がエリスと出会った時まで時間を巻き戻して軌道修正の判断を促しています。愛だけではどうにもならない事もある、価値観の違いは埋まらないぞ、と。もし、父が生きていたのなら、おそらく同様の考えを示して、母は女の立場からエリスを擁護、、しないでしょう。今の生活に満足しているのなら、何か理由を付けて俺を訪ねずに済ます事も出来た、呼び出しに応じたと言うことは迷いのある証拠、ならば本来君のなさんとした事をするべきだろう?と相沢は豊太郎の本心を読み切っている、、ここまで手札を揃えられて、さて、豊太郎はどう決断するのか。エリスを見捨てるとなったら第二の豊太郎が生まれる事になるけれど。父のいない豊太郎に父の自覚は芽生えるものか。

    • 山川 信一 より:

      相沢に父を見るという捉え方は興味深いものがあります。山崎正和氏の評論に『闘ふ家長』があります。鷗外は家長として、立派な父として生きました。ならば、この作品にもその示唆があってもおかしくありません。その方向で研究してみてください。
      ただ、相沢の提案内容は、豊太郎自身も既に考えていたはずです。言わば背中を押してくれたに過ぎません。また、豊太郎の父は母の中に存在しています。母は父代わりでもありました。その母がエリスを擁護することはあり得ません。豊太郎にいなかったのは、むしろ純然たる母だったのかもしれません。
      しかし、「一重に有能な豊太郎をこの苦境から救う糸口を掴むため」と見るのは、相沢を捉え得ていません。相沢は物事をもっと多面的に捉えます。「一重」とは言えないでしょう。

  2. すいわ より:

    「母は女の立場からエリスを擁護、、しない」と自分で書いていました。父がいないのでなく、むしろ豊太郎には母が必要なのですね。ならば尚更、エリスが彼に対して向けてくる愛は手放しがたいものな訳ですね。
    私が相沢なら、友の窮地、やはり話を聞くことで原因が何なのか掴んで今すべきことを第三者目線で言ってみます。エリスを知らない分、豊太郎より判断しやすい。友であればこそ厳しい事を言うかもしれません。それで終わる友情ならばそれまでだったと思うしかない。相手は自分ではないのだから。相手が痛い思いをする分、私も友を失うリスクは引き受けなくてはならない、と考えるあたりが「父的」と捉えたはずの相沢像に「母的」要素が加わって「一重に」となってしまった?そうですね、相沢、豊太郎という人間をもっと細分化して良いところ欠けるところ捉えています。
    豊太郎はエリスの妊娠までは相沢に話さなかったのではないかとも思ったのですが、助けが欲しい(子供な)豊太郎は全部話しただろうし、相沢なら、子供が生まれて顔を見てからでは判断が鈍る、父の自覚を持つ前の今でなくては、と思ったでしょうね。いずれにしても、実は一番深刻な立場の(これは女性目線)エリスが蚊帳の外というところがまた、、「是れ、その言のおほむねなりき」、まるで他人事の豊太郎。この男、どうしたものか。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、エリスからの愛を母からの愛のように受け取っていたのでしょう。だから、棄てられないのです。
      相沢は豊太郎との友情だけを気に掛けていた訳ではありません。つまり、自分の立場、出世、天方伯の都合、日本の外交などなど、言わば、最大多数の最大幸福を考えた上で、豊太郎にも対処しています。
      それで、「一重に」では、相沢を捉え得ていないと言ったのです。豊太郎とは視野の広さが違います。
      エリスの妊娠については、言っていないでしょう。なぜなら、相沢がその解決策を述べていないからです。

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