あらゆる点で模範少年

 僕の両親は、立派な道具なんかくれなかったから、僕は、自分の収集を、古いつぶれたボール紙の箱にしまっておかなければならなかった。瓶の栓から切り抜いた、丸いコルクを底にはり付け、ピンをそれに留めた。こうした箱のつぶれた縁の間に、僕は、自分の宝物をしまっていた。初めのうち、僕は、自分の収集を喜んでたびたび仲間に見せたが、ほかの者は、ガラスのふたのある木箱や、緑色のガーゼをはった飼育箱や、そのほかぜいたくなものをもっていたので、自分の幼稚な設備を自慢することなんかできなかった。それどころか、重大で、評判になるような発見物や獲物があっても、ないしょにし、自分の妹たちだけに見せる習慣になった。あるとき、僕は、僕らのところでは珍しい、青いコムラサキをとらえた。それを展翅し、乾いたときに、得意のあまり、せめて隣の子供にだけは見せよう、という気になった。それは、中庭の向こうに住んでいる先生の息子だった。この少年は、非の打ちどころがないという悪徳をもっていた。それは、子供としては二倍も気味悪い性質だった。彼の収集は小さく貧弱だったが、こぎれいなのと、手入れの正確な点で、一つの宝石のようなものになっていた。彼は、そのうえ、傷んだり壊れたりしたちょうの羽を、にかわでつぎ合わすという、非常に難しい、珍しい技術を心得ていた。とにかく、あらゆる点で模範少年だった。そのため、僕はねたみ、嘆賞しながら彼をにくんでいた。

「両親が立派な道具をくれなかったのは、貧乏だったから?」と真登香先輩が言う。
「そうじゃないと思うな。親がちょうの収集に反対していたからよ。「僕」があまりに夢中になっているから、「みんなは何度も、僕にそれをやめさせなければなるまい、と考えたほどだった。」とあったわ。これじゃ、立派な道具なんて、買ってくれないわ。」と若葉先輩が答える。
「自分の獲物は自慢したいけど、見栄が邪魔するのね。子供でも、見栄はあるわね。」と明美班長が話を進める。それはそうだな。
「見栄って、他との比較から生まれるものだから、人間にとって根源的な感情かもしれないなあ。」と若葉先輩。
「そうなると、人は元から劣等感とか優越感とかを持つようにできているのかな。」と真登香先輩が聞く。難しい問題だなあ。
「それはともかく、コムラサキを捕まえて、どうしても誰かに見せたくなったのね。まあ、自然な感情ね。」と明美先輩が作品内容に話を戻した。
「価値のわかる人に共感してほしかったんですね。妹たちじゃ、価値がわかんないもの。」とあたしが言う。それをきっかけに次々に意見が出た。
「でも、なぜ隣の子供を選んだのかしら?近いから?」
「それもあるけど、この少年に劣等感を持っていたので、一度ギャフンと思わせたかったんじゃないかな?」
「「先生の息子」ってあるけど、期待通りの模範少年だったわけね。」
「「非の打ちどころのないという悪徳」って皮肉よね。だって、本来「非の打ち所のない」と言うのは、悪い行為じゃないから。どうして悪徳なのかな?」
「「子供としては二倍も薄気味悪い性質」だとも言っているよね。」
「だって、普通人間は、大人だって不完全で「非の打ちどころのない」ってことはあり得ない。それを子供が実現しているんだから、コイツどうなっているのって気になるよね。それが二倍の薄気味悪さだね。」
「じゃあ、悪徳って言うのはどうして?」
「周りに嫌な思いをさせるからじゃないの?「薄気味悪さ」もそうだけど、こういうヤツがいると比べられるじゃない?あの子の比べて、お前はどうしてダメなんだろうとか、親に言われたりする。」
「あるある。これって、すごく迷惑だよね。なるほど、「悪徳」だわ。」
「収集でも、完璧なんだ。宝石のように美しい標本。ちょうを修復する珍しい技術。他の子には、到底叶わないものを持っていたのね。」
「「ねたみ、嘆賞しながら彼をにくむ」気持ち、わかるような気がする。」
「自分に劣等感を抱かせるものは、憎みたくなるよね。それも、自分が夢中になっているちょうに関するものなら尚更。」
「「先生の息子」の関心は、ちょうを沢山集めることよりも、美しい標本を作ったり、羽を修復することに関心があったんだ。なぜかな?」
「そうか!人に自慢できるからだ。関心はそっちか。ちょうの収集は、自分が優れていることをアピールするための手段だったんだよ!」
「「あらゆる点で模範少年」というのも、この子が大人の評価を意識して生きているためよね。いわゆる、「先生の息子」はアダルトチルドレンてヤツなんだ。」
 アダルトチルドレンって、聞いたことあるけど、そういう意味だったんだ。「先生の息子」ってあるけれど、作者は「先生」に偏見を持っているのかな?きっとそうだよね。これは、「先生」というものを暗に批判しているんだ。

コメント

  1. すいわ より:

    「先生」を批判している、というより「権威」に対する懐疑なのかもしれませんね。「先生」、便利な言葉です。医者、弁護士、政治家、教師、、先頭に立って歩かなくてはならなかったり、間違いが人の命に関わったり。
    「〜ねばならない」が自身に対して内省的に思うものか、周りから要求されるものか、はたまた「先生」である自分に対して周りへ要求するかでまるで違った「先生」像になります。作者に「先生」に対する懐疑があるとすれば3番目でしょう。
    『教師はそうそう間違えるべきではありません。私はダメ教師なので、よく間違えます。でも、「過ちて改めざる、是を過ちという」を忘れなければいいと思っています。』
    そう仰った先生がいます。立派だなぁと思ったものです。人間ですから全く間違えないなんてあり得ない、でも、「先生」で間違えた事を認めようとしない人って案外多いのです。
    完璧なものと言われて思いつくものが「卵」。過去も現在も未来も詰まっている。その殻から出た瞬間からどんどん持っていた完全を取り零して行くから、私たちは学んで補っていくのかと考えた事があります。だからこそ「完全」に近い子供という存在にこそ丁寧に対応しなくてはならないと思っているのですが、、
    文芸部の皆さんの指摘するとおり、「先生の息子」はこの年齢にして第3の「先生」の意識に到達していて、価値の基準が自らの外側にある。好悪というかなり基本的な感情のレベルまで外側から期待されたものを組み込まれ本人は「顔」を持っていない。作られた「模範」は極めて合理的、「僕」でなくとも本能が異質異様と感じても不思議はない。本能のまま蝶を追いかけていた「僕」も一つの社会に所属するようになりコミュニティの価値基準の中に置かれ、隣り合わせた悪意に侵食されていく、、、。
    立派な道具を与えられなかったのは、蝶のコレクションに反対だっただけではないように思います。標本としての体裁を整えたものより、いかに自分で工夫を凝らして大切な蝶を保管するか、考えて作った標本は立派だと思います。与えればいいというものでもありません。

    • 山川 信一 より:

      長いコメント、ありがとうございます。今の人にも欠けているのは、すいわさんのようにはっきり自分の意見を述べる態度です。はっきり述べると、それに伴って評価されたり、責任が生じたりします。それを恐れて黙っているのです。私は、教師時代その態度を改めさせることが到頭できませんでした。
      すいわさんを育てた先生を尊敬します。それで、ヘッセの「先生」批判ですが、これは「先生」が子どもを型にはめようとすることへのものです。つまり、模範少年を育てることにのみ関心を抱いていることを批判しているのです。その意味で、この息子は「よく」育っているのです。「価値の基準が自らの外側にある」というご指摘はその通りです。これが「僕」との一番の違いです。
      親が立派な道具を与えなかったのは、ご指摘の配慮があったのかもしれません。しかし、結果としてそういう教育的な効果はあったでしょう。ただ困ったものねくらいには思っていたはずですから、そこまでの思いがあったかどうかはわかりません。また、妹がいるようですから経済的な余裕もなかったこともあるでしょう。

  2. なつはよる より:

    先生、私も全然発言できませんでした。発言しなかったという以前に、言うべき意見が何もなかったのです。いつも、物語の中に深く感情移入して、主人公と一緒に泣いたり笑ったりしながら読み進めていて、好きな作品がたくさんありました。まさか、物語が天から降ってくると思っていたわけではないですが、筆者の意図など、考えたこともありませんでした。

    先生はいつも、自分で考えることをしないで、先生のおっしゃったことを一生懸命ノートに書いているだけなのはダメとおっしゃっていましたが、ひたすら下を向いて書いてばかりいました。自分で考えることができないからこそ、一文字でも書き漏らしたら大変なことになると本気で思っていました。他の科目にはない大変な緊張感でした。

    でも、もう卒業した後のことになりますが、ある日突然、「もしかしたらこの本の作者は本当に地球上で生きていた人だったのかもしれない!」と思える瞬間があったのです。その時、初めて私は、「筆者?知るか! ああ困ったなあ…」ではなくて、「この人が何を感じていたのか知りたい。どういうことを表現したくてこの物語を描いたのか知りたい!」と心から思えたのです。その瞬間はあっという間に消えてしまいましたが、世界が変わるほどの気づきでした。

    • 山川 信一 より:

      私は、現役時代あまりいい教師ではありませんでしたね。あなたのような生徒の気持ちをわかっていませんでした。だから、その罪滅ぼしも含めてこうしてネット上で「国語教室」を行っているのです。
      あなたのおっしゃっていることは、とても貴重です。もっと教えてください。最後の段落に書いてあることは、とても興味深いです。
      授業とは「この人が何を感じていたのか知りたい。どういうことを表現したくてこの物語を描いたのか知りたい!」と生徒が心から思えるように導くことですね。それを妨げる授業はダメです。私もそうでした。

  3. なつはよる より:

    いいえ、ちがいます。先生は素晴らしい先生です。国語の授業で一番印象に残っているのは、山川先生です。どうしたら先生のように読めるのだろう? どうしたら先生のおっしゃっていることが自分で考えられるのだろう???とずっと思ってきました。でも、まだできません。だから、今ここで学ばせていただけるのがとてもうれしいのです。

    初めて筆者のことを考えた時は、たまたま読んでいた作品が突然描写が薄くなって、「あれ、ここもっと知りたいな」と思ったのです。「ここわからない」と友達に言ったら、「筆者はもっと書き込むべきだよね。」と言ってくれたのです。ああそういう風に言えばいいのか! こういう時、山川先生もそうおっしゃるだろうか? もしかしたら今初めてちょっと先生みたいに読めたかも!と思って、私はとてもうれしかったです。

    今でも、子どもの頃のように、自分の想像力だけに頼るやり方で本を読み進めて、筆者のことをついつい忘れていることが多いです。でも、作品によっては、伏線があまりにもあからさまだったり、構成に齟齬があったり、続編がいつまでも出なかったり・・・という様々な理由で、強制的に筆者の存在を意識させられてしまう時もあります(悪口を言っているわけではありません)。

    • 山川 信一 より:

      お褒めのお言葉、ありがとうございます。でも、思いは変わりません。これからでも、罪滅ぼしに国語教育に貢献したいと思っています。どうぞ何でもおっしゃってください。とても参考になります。
      筆者の存在を意識しないで読むのも読書の楽しみですね。現実でも、恋人の言葉に浸っている時などはそうです。でも、なぜそんなことを言うのかなと考えていないと、時に自分勝手で自分に都合の良い捉えたかをすることになり、時にはその関係にひびが入ります。恋人関係であっても発言者への思いは必要です。
      国語の勉強は、そういう実社会で応用できるようなスキルを身に付けるためのものです。勉強のための勉強ではありません。
      この中で扱っている作品を含めて具体的な表現についてのコメントもお待ちしています。

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