題しらす よみ人しらす
紫のひともとゆゑにむさしのの草はみなからあはれとそ見る (867)
紫の一本ゆゑに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る
「題知らず 詠み人知らず
紫の一本のために武蔵野の草はみんなしみじみ美しいと見るのだ。」
「(あはれ)とぞ」の「と」は、格助詞で内容の説明を表す。「ぞ」は係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「見る」は、下一段活用の動詞「見る」の連体形。
紫草一本のために武蔵野の草はすべてがしみじみ美しく見えます。それと同じように、熱愛するあなた一人のためにあなたに繋がるすべての人はみんなしみじみ愛おしく思われます。私はあなただけでなくあなたの家族も愛します。
作者は、相手に限り無い愛の広がりを伝えている。
この歌も前の歌と同様に愛と喜びの歌である。ただし、相手は恋人に絞られる。「恋歌」である。しかし、「恋歌」巻には入らない。なぜなら、悲恋ではないからだ。この歌は幸せを歌っている。恋人は、紫の衣を着て、武蔵野に住んでいたのだろう。結婚の挨拶だろうか。あなただけでなくあなたと繋がる人をすべて愛するという思いは、極めて恵まれた状況から生まれる。これと対照的なのがパリオリンピック閉会式にセリーヌ・ディオンが雨のエッフェル塔で歌ったエディット・ピアフの『愛の賛歌』である。その詞には次のような言葉が出て来る。「愛にあふれた朝があれば/あなたの手に包まれていれば/どうでもいいの/世の中の問題なんて/祖国だって捨てる/友人だって捨てる/あなたが望むなら」愛のためには何でも切り捨てると言うのだ。これは、不倫の愛だった。この二つの歌を対照してみると、この歌の二人がいかに恵まれた状況にあるかかがわかる。愛のあるべき姿など無い。すべては置かれた状況が決定する。編集者は、この歌を幸せな状況に於ける究極の愛情表現の一つとして評価したのだろう。
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