やまひしてよわくなりにける時よめる なりひらの朝臣
つひにゆくみちとはかねてききしかときのふけふとはおもはさりしを (861)
終に行く道とは予て聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
「病気をして弱くなってしまった時に詠んだ 業平の朝臣
終いに行く道とは前から聞いていたけれど、それが昨日今日とは思わなかったのに。」
「(聞き)しかど」の「しか」は、助動詞「き」の已然形で過去を表す。「ど」は、接続助詞で逆接を表す。「(思は)ざりしを」の「ざり」は、助動詞「ず」の連用形で打消を表す。「し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「を」は、接続助詞で逆接を表す。
死への道は、最後に誰しもが行く道とは前々から聞いていた。だから、自分もいづれはその道を行くことになると思ってはいた。けれども、その道に出で立つことがこんなに差し迫っていたとは思わなかったのに、まさに今がその時なのだなあ。
作者は、死に臨んだ時の心境をありのままに詠んでいる。
この歌は、前の歌より更に死が近づき、まさに死に臨んだ時の歌である。死そのものへの思いがテーマになっている。いつか死ぬことは頭ではわかっていても、それが今となれば戸惑うに違いない。その時には、誰しもこう思うだろう。その普遍的な感慨を言い得ている。しかも、作者が恋の浮き名を馳せた業平であることが業平への哀れを誘う。あの業平にして、こんな思いで死んでいったのだと。つまり、編集者は、ここでも歌に普遍性と特殊性を持たせている。この歌は、『伊勢物語』を締めくくる一二五段にもある。ただし、その詞書は、「昔、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ」とある。これは、『古今和歌集』にある死への文脈が『伊勢物語』には無かったので、「弱くなりにける」ではなく、はっきりと「心地死ぬべく」としたためであろう。
コメント
当たり前に続くはずの日常が途絶える寸前、大きな心の動揺を率直に表現する事で差し迫ったその時を強く意識させます。まるで蝋燭の炎が消える瞬間を切り取ったよう。大きく炎が揺れて(この歌はここですね)その後の事は描かれていないけれど、その炎がふっと消え、一条の煙となってすうっと立ち昇って行く様子が容易に連想されます。死をこんな風に表現出来るものなのですね。
「終に行く道とは予て」聞いていても、どこか他人事で、それが我が身にも今訪れるとは思っていないのが死というものですね。この歌は今まさに死を意識した人の偽らざる心境を表していますね。そうだろうなあと共感してしまいます。さすが業平の歌です。最後のため息を思わせます。
伊勢物語の締めくくりがこれかと思ったものです。元気だったプレーボーイも寿命には逆らえないのですね。
『古今和歌集』の編集者は、読者のそういう感想を狙ったのでしょう。でも、業平にとっては納得の人生だったはずです。業平は幸せな男です。そう言えば、私の友人に「業平になる」と言っている人がいます。男にとって、業平の人生は理想の一つだからでしょうね。