題しらす よみ人しらす
なきひとのやとにかよははほとときすかけてねにのみなくとつけなむ (855)
亡き人の宿に通はば郭公かけて音のみ泣くと告げなむ
「題知らず 詠み人知らず
亡くなった人の家に通うなら、郭公よ、心に掛けて私が声を上げて泣いてばかりいると告げてほしい。」
「(通は)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(音)のみ」は、副助詞で限定を表す。「(告げ)なむ」は、終助詞で願望を表す。
郭公が盛んに鳴いている。郭公もこの家の主が亡くなったのを悲しんで泣いているのだろう。けれど、お前はあの世の宿に通うと言うではないか。もしそれが本当なら、郭公よ、この私も、お前が鳴いて(泣いて)いるように、亡き君を心に掛けて泣いてばかりいると告げてほしい。
この歌も前の歌と同様に故人を偲ぶ歌である。ただし、目先を変えて季節に注目している。折から郭公が鳴いていたのだろう。849の貫之の歌では初音だったが、この歌は季節が進んで郭公の声がうるさいくらいに聞こえてくる。それに託して、自分には郭公の声がこう聞こえるのだと言う。亡き人への思いはあの世まで及ぶと、悲しみのほどを表す。また、この歌は、一般に悲しみにある者には、物事が人とは違って感じられることも表している。つまり、ある場面を言うことで、一般を思わせる。編集者は、この表現を評価したのだろう。
コメント
137番の歌の時にホトトギスの異名が様々ある事を教えて頂きました。その中に「死出の田主」というものがあった事を思い出しました。夏の象徴として沢山詠まれている鳥ですが、夜でも鳴き交わす事から黄泉の国を連想させるのですね。そこへ行き来するのだったら私のこの嘆きをどうか伝えておくれ、と。
歌集のそれぞれのパートで編集によって季節の流れもさりげなく演出する細やかさ、歌の見本帳?百科事典?として当時の人たちは活用していたのかもしれませんね。
『古今和歌集』は、類い希なる才による特別の歌集です。和歌史上と言うだけでなく、日本文学史上最高の傑作です。当時の人だけでなく、現在でもそこから学ぶことがいくらでもあります。ただ、その知性には、同じ平安時代でも直ぐについて行かれなくなってしまったようです。それほどのものです。これからも気合いを入れて読んでいきましょう。