《妹の突然の死》 巻十六:哀傷哥

いもうとの身まかりにける時よみける 小野たかむらの朝臣

なくなみたあめとふらなむわたりかはみつまさりなはかへりくるかに (829)

泣く涙雨と降らなむ渡り河水勝りなば帰り来るかに

「妹が亡くなった時に詠んだ 小野篁朝臣
泣く涙が雨となって降ってほしい。三途の川が水が増したら帰ってくるだろうから。」

「(降ら)なむ」は、終助詞で願望を表す。「(勝り)なば」の「な」は、助動詞「ぬ」の未然形で完了を表す。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「かに」は、終助詞で将来の期待を表す。
私の泣く涙があの世で雨となって降ってほしい。それであのとの境にある三途の川の水が増したら、妹が渡ることができなくてこの世に帰ってくるだろうから。
妹の死に際して、俄にその死を受け入れられない兄の思いを詠んだ。
死は、年齢の順に訪れるものとは限らない。当然、兄より先に妹が亡くなることもある。それも愛する妹が若くして亡くなった時、兄の悲しみは計り知れない。妹は、共に育った最も身近な異性でもあるからだ。幼い頃から慣れ親しんだお互いを知り尽くしている存在だ。恋愛に近い感情さえ生まれることもある。そんな妹が亡くなったら、何としても甦らせたいと思うに違いない。その思いがこの有り得ない設定を生み出したのだろう。こう願わずにはいられないのだ。そして、このように歌にすることでわずかに心が癒やされることもある。歌にはそんな働きがある。しかし、そうは言っても悲しみはひととおりのものではないだろう。「泣く」「涙」「なむ」「なば」の「な」音、「渡り」「勝り」「帰り」の「り」音、「河水」「帰り」「かに」の「か」音の繰り返しによって、異なる悲しみが繰り返し胸に迫ってくることを表している。編集者は、必然的な誇張表現、音による効果を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    宮沢賢治『春と修羅』の「永訣の朝」がすぐに頭に浮かびました。恋人との別れの辛さは締め付けられるような痛み。肉親との死別ともなればそれは身を裂くような、半身を失うような痛みなのでしょう。手立てがあるのならどんなことでもして取り戻したい。それがどんなにあり得ない、無駄な事と分かっていても。

    • 山川 信一 より:

      宮沢賢治の妹トシへの愛は、肉親への愛を越えて恋人のそれにも近いものがありました。一般に兄の妹への愛は複雑です。妹の兄への愛も同様でしょう。肉親としてはもちろんのこと、異性としても愛し合いながら、決して一線を越えてはならない愛。言わば抑制の愛。それが兄妹の愛です。もちろん、すべての兄妹愛がこうはならないにしても、こういった要素は内在しています。それを思いながらこの歌と読むと、悲しみのほどが更に伝わって来ますね。

  2. まりりん より:

    この時代は、子供が亡くなったり、若い人が病気で突然亡くなったりが、現代より桁違いに多かったことでしょう。でも、肉親を失う悲しみは、今も昔も同じ筈。妹を失った悲しみが痛い程に感じられる歌ですね。いくつもの音の繰り返しが印象的です。

    • 山川 信一 より:

      肉親を亡くす悲しみはいつの世も変わりませんね。特に年若い者の死は殊更です。それを「哀傷歌」の巻頭に持って来たところに編集者の意図を感じます。
      この歌は、音にまで気を配って作られています。『古今和歌集』の歌は、本当に隅々まで心が行き渡っていますね。味わい深い歌ばかりです。

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