《人から時へ》

題しらす/又は、こなたかなたに人もかよはす よみ人しらす

わすらるるみをうちはしのなかたえてひともかよはぬとしそへにける (825)

忘らるる身を宇治橋の中絶えて人も通はぬ年ぞ経にける

「題知らず/または、あちらこちらに人も通わない 詠み人知らず
忘れられる身をつらく思う。宇治橋の中が絶えるように全く人も通わない年月を経てしまったことだなあ。」

「(忘ら)るる」は、助動詞「る」の連体形で受身を表す。「宇治橋」に「憂し」が掛かっている。「(通は)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(年)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(経)にける」の「に」は、助動詞「ぬ」の連用形で完了を表す。「ける」は、助動詞「けり」の連体形で詠嘆を表し、「ぞ」の結びになっている。
私はあの人から忘れられる身となり、つらくてならない。折しも、宇治橋は途中が破損してあちらにもこちらにも通えない。だからであろうか、夫婦仲が絶えてあの人も全く私のところに通って来てくれなくなった。気がつけば、そんな年月を長く過ごしてしまったことだなあ。
当時、宇治橋が破損していたのだろう。それにこと寄せて我が身を嘆いている。
『古今和歌集』の歌は普遍性を表すことを目指しているけれど、この歌は歌の題材としては時事を用いることができることを示している。つまり、特殊な題材によって、普遍的心理が表せることを言うのである。
恋への後悔は、次第にその対象が〈人〉から過ぎ去った〈時間〉へと移っていく。そして、最後に自分の人生は何だったのかという嘆きに行き着く。これも恋に対する普遍的な心理である。編集者は、この歌が時事を用いて恋の普遍性を表している点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    橋が壊れてしまったせいで行き来もできない、だからあなたは訪れない。ということにしたいのですね。橋が壊れたなら舟で漕ぎ渡れば良い。でも、そんな手間を掛かるだけの気持ちが相手に無い。その事を認めたくないまま時ばかり過ぎてしまった。とり残され、なんともやるせない。掛かっていた橋の名が「宇治(憂し)」、何もかも悪い方へと結びつけて考えてしまう。寧ろ諦めるために敢えて結びつけるのか。恋愛のときめきも、相手への恨み言も感じられず、ただただ我が身の孤独を嘆く。
    詞書を見るに元々は恋歌ではないのかもしれません。「こなたかなたに」をどう捉えたものか?

    • 山川 信一 より:

      夫婦仲が絶えてしまったことを宇治橋の中が壊れてしまったことにたとえています。人が通わないことをイメージ化しています。可能性としての〈舟で漕ぎ渡る〉は除外されています。「宇治橋」の名も「憂し」を連想するものになります。相手の姿は遠退き、思いは自分が空しい時間を過ごしたことへの後悔に向かいます。経験の有無に拘わらず共感させられます。
      詞書の「こなたかなたに人も通はず」ですが、「人も」をどう捉えるかですね。(これは歌の「人も」を含めて。)他に何が通わないのでしょうか?〈便りはもちろんのこと〉かな?

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