《理性と感情》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた すかののたたおむ

つれなきをいまはこひしとおもへともこころよわくもおつるなみたか (809)

つれなきを今は恋ひじと思へども心弱くも落つる涙か

「寛平の御時の后の宮の歌合の歌 菅野忠臣
つれない人を今は恋すまいと思っても、心弱くも落ちる涙だなあ。」

「(恋ひ)じ」は、助動詞「じ」の終止形で打消意志を表す。「(思へ)ども」は、接続助詞で逆接を表す。「(心弱く)も」は、係助詞で強調を表す。「(涙)か」は、終助詞で詠嘆を表す。
私がどんなに思っても、あの人は今ではすっかり私に冷たくなってしまった。どんなことをしても、あの人の心を取り戻すことはできそうにない。もうあの人に恋しても無駄だ。そんなことは十分わかっている。だから、恋などすまいと思う。それなのに、その決心とは裏腹に気付けば涙かこぼれている。私は、今でもあの人を恋しがっているのだ。どうしても諦めがつかない。心は弱いものだなあ。
恋の場面では、頭ではわかっているのに心が従ってくれない。つまり、理性は感情より弱いのだ。作者は、それを嘆いている。
片思いは、恋の始まりにだけあるものではない。むしろ、本物の片思いは恋の終わりにこそ存在する。これは、始まりの片思いと違って、両思いになる可能性がほぼ無い。なぜなら、未知による片思いではなく、既知による片思いであるからだ。すなわち、そこに到るまでの交際の過程が生み出した心のずれであるからだ。したがって、その場合、人はもはやこうして歌を作って嘆くしかない。この歌は、そんな恋に於ける普遍的心理を力の抜けた表現でさらりと表している。編集者は、それを評価したのだろう。前の歌とは、〈理性と感情の食い違い〉繋がりである。

コメント

  1. すいわ より:

    「つれなき」相手の態度に対して「こひし」とこれまた強い意思を示しながら、後半では「心弱くも落つる涙か」、意思に反しての落涙。溢れる涙で自分の本心に気付くのですね。意思の堰を切って溢れる感情。己の心は己のものなのにコントロールできない。恋する事が無ければ経験しないであろう心の状態、これをさらりと表現しています。恋の終わりの片恋、なるほど、と思いました。

    • 山川 信一 より:

      片恋の概念を覆しています。詩とは発見、常識への飽くなき挑戦です。そして、それは言われてみれば、なるほどと思わされます。これこそが詩なのですね。

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