題しらす 典侍藤原直子朝臣
あまのかるもにすむむしのわれからとねをこそなかめよをはうらみし (807)
海人の苅る藻に住む虫のわれからと音をこそ鳴かめ世をば恨みじ
「題知らず 典侍藤原直子朝臣
漁師が苅る藻に住む虫の私であるからと声を出して泣くのだろうが、夫婦仲は恨むまい。」
「海人の苅る藻に住む虫の」は、「われから」の序詞。「われから」は、「われから」という虫の名と「我から」の掛詞。「(音)をこそ」の「を」は、格助詞で対象を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(鳴か)め」は、助動詞「む」の已然形で意志を表す。「(世)をば」の「を」は、格助詞で対象を表す。「ば」は、係助詞「は」の濁ったもので取り立てを表す。「(恨み)じ」は、助動詞「じ」の終止形で打消意志を表す。
こうなってしまったのもみんな自分から招いたことだと思って、漁師が苅る藻に住む虫の割殻のようにか細い小さな声で泣いていよう。でも、あの人が悪いのだと、これまでの夫婦仲は恨むまい。
「われから」は「割殻」と書く。海藻の一部かと思えるほど小さくか細い虫である。引き上げると殻が破れてしまうのでこう言う。その声であるから、よほどかすかでか細いものだろう。作者は、自分の泣き声をこれにたとえることで、自分がいかに悲しみを忍んでいるかを表す。「恨むまい」と言うのは、既に恨んでいることを前提にしている。恨む気持ちが無いという訳ではない。恨んでいるからこそ、それを必死で抑えようという思いを表している。
前の歌とは「世(夫婦仲)」繋がりである。夫婦仲は、「憂し」から「恨み」へと展開していく。『伊勢物語』の第五十七段に次の歌が出ている。「恋ひわびぬ海人の苅る藻に宿るてふわれから身をも砕きつるかな」(叶わぬ恋に悩んで途方に暮れています。虫の割殻のように私はこの身まで砕いてしまったしまったことですよ。)『伊勢物語』では、人知れぬ恋に悩む男の歌になっている。「われから」は、イメージ喚起力が高いのだろう。歌を次々に作れそうだ。編集者は、作者の内省のほどと「われから」の効果的な使い方を評価したのだろう。
コメント
伊勢物語と聞いて、第六十五段にまさにこの歌が出ていた事を思い出しました。
確かにこの歌単体だと、「よをはうらみし」と言いながら、どんなに自分が声を押し殺してまで我慢しているかが強調されていますが、場面が違うと全く違った趣きになっていた事に驚きました。伊勢物語の作者は、恋を、この歌の詠み手を「恨み」で終わらせたくなかったのではと思いました。
『伊勢物語』の当該箇所についても触れるべきでしたね。ご指摘ありがとうございます。
表現の意味は、その言葉自体だけで決まるのではなく、決めるのは場面・状況であることを改めて知らされます。第六十五段では、恋仲を無理に引き裂かれ、蔵に閉じ込められ、折檻された女の歌になっていましたね。ここでは男の女も恋を諦めていません。それに対して、直子の歌は、『古今和歌集』のこの場面に出てきます。もう、恋や男女仲に期待する気持ちにはなれないと読むべきでしょう。やはり意味を決めるのは、場面・状況なのです。