《忘れられた妻》

題しらす さたののほる

ひとりのみなかめふるやのつまなれはひとをしのふのくさそおひける (769)

一人のみながめふるやの妻なれば人をしのぶの草ぞ生ひける

「題知らず 貞登
一人だけで長雨が降るのを眺める古家の妻なので、人を偲んで忍草が生えてしまったことだなあ。」

「(一人)のみ」は、副助詞で限定を表す。「ながめ」は、「長雨」と「眺め」の掛詞。「ふるや」は、「降るや」と「経るや」と「古家」の掛詞。「つま」は、「妻」と「軒」の掛詞。「(妻)なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「しのぶのくさ」は、「人を偲ぶ」と「忍の草」の掛詞。「(草)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「おひ」は、「心が生じる」意と「草が生える」意が掛っている。「(生ひ)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
夫が訪ねて来ることなく一人でばかりで物思いに沈んで暮らしている妻。その妻が住む長雨の降る古家の軒だから、妻には夫を思い偲ぶ心が生じ、家の軒先には忍草が生えてしまったことだなあ。
作者は、古家に住み訪ねてこなくなった夫を思い偲ぶ忘れられた妻を憐れんでいる。
作者はこの女の夫なのか。そうであるなら、作者は、自分がしたことの罪に気付き、後悔し反省していることになる。そして、その思いの強さがこの技巧を懲らした歌を生み出した理由になる。この歌は、三十一音に掛詞を駆使することで、極限まで情報を盛り込んでいる。作者の溢れるばかりの思いを込めるためである。編集者はその表現技巧を評価したのだろう。表現技巧には懲らすだけの必然性があることを示している。

コメント

  1. すいわ より:

    長雨が降る。その様子をただ一人眺めていると昔の事が思い起こされる。そうだ、あの妻は今、どうしていることだろう、、。
    古くなった家にたった一人、降り続く雨を眺めやる妻。私を待ち侘びるあまり軒には忍草が生い茂ってしまったことだなぁ。
    すっかり足が遠のいてしまった妻の姿を思い浮かべての歌でしょうか、自分が通わなくなったせいで寂れた家、そこにただ一人佇む妻。そんな侘び暮らしを強いてしまった。どうして自分は忘れてしまっていたのだろう。妻が私の事を思ってあの家にあんなに忍草が生えてしまったからだろうか、、。後悔の念、凝った歌にはその理由があるのですね。長雨は妻の、そして詠み手の涙なのかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      長雨の降る日に過ぎ去った日々を顧みる。訪れることなくなったあの古家に住む妻はどうしているのだろう。思いは次から次へと湧いてくる。どんなに後悔しても尽きることがない。そんな思いを掛詞に託したのでしょう。掛詞は内容を盛り込む仕掛であって、単なる言葉遊びではなさそうです。

  2. まりりん より:

    すいわさんが仰るように、長雨は妻と詠み手の涙、、本当にその様に思えてきます。古家に一人ぽつんと、雨を眺めながら涙する妻の寂しげな様子が目に浮かびます。

    掛詞がたくさんですね。掛詞を使うことでより多くの事柄を詠めますが、現代短歌では余りそのような使い方は見かけませんね。。

    • 山川 信一 より:

      現代短歌は、正岡子規の『古今和歌集』否定の影響を受けています。技巧をどこかいけないものだと言う思い込みがあるのでしょう。技巧も使いようなのにね。

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