題しらす よみ人しらす
やましろのよとのわかこもかりにたにこぬひとたのむわれそはかなき (759)
山城の淀の若菰かりにだに来ぬ人頼む我ぞ儚き
「題知らず 詠み人知らず
山城の淀の若菰を苅るように仮にさえ来ない人を頼りにする私が頼りない。」
「山城の淀の若菰」は、「苅り」を導く序詞。「かり」は、「苅り」と「仮」の掛詞。「だに」は、副助詞で最低限度を表す。「(来)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(我)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「儚き」は、形容詞「儚し」の連体形。
山城国の中央部には巨椋(おぐら)池がある。そんなところでも、淀みに生える若菰を苅る人はやってくる。それなのに、私の所にはほんのちょっとでさえもあの人は来てくれない。私は薹が立って「若」菰ではなくなってしまったからだろうか。それでも、私はあの人を頼りにして生きている。何と頼りない生き方をしていることか。
作者は、自分の頼りなく心細い人生を嘆いている。しかし、それを冷静に分析はするが、どうすることもできないでいる。
前の歌と同様に地名を入れた序詞を用いた歌である。その繋がりでここにある。作者は、自分が山城国に住んでいることを暗示しているのだろう。若菰を苅る者のイメージを利用して、山深いところにやって来る恋人の姿を想像させている。そしてその上で、「来ぬ人頼む我ぞ儚き」という矛盾した自分の生き方を内省してみせる。編集者はこうした表現意図を評価したのだろう。
コメント
若菰を刈りに来る目的でも無ければ、ただでさえ遠く辺鄙な所、足を運ぼうなんて仮にも思われませんね。来ないと分かっている貴方をあてにして待ち続ける私はなんて心許ないことだろう、、。「真菰」でなく「若菰」、若い時はあった、でも時間は経過して今の私は、と読ませるのですね。そして「淀」が流れの停滞している、動きを感じさせないイメージを作っています。ただ一人まんじりともせずそこに居る。刈り取られない、ここから連れ出してもらえる見込みもない。不安な気持ちを相手にぶつけることも出来ずただ内省する。若菰が芽を出すどころか自分は淀みに沈んで息もできないような苦境に立っているのだ、わかっているのに尚、いつまでも諦めがつかない。言葉にすることで自らの姿を確認しているようで切ない。
「若菰」「淀」の効果を隅々まで生かした鑑賞ですね。鑑賞はこうありたいものです。
作者は、恋人はもう会いには来ないであろうと、既にわかっているのですよね。それでも心の奥底では、ほんの短い時間でも会いに来てくれないかと期待してしまう。切ない思いが溢れた歌ですね。
頼れないとわかっているのに頼る、そんな自分をバカだと思いながらもそうせざるを得ない。これも恋の姿です。昔の歌謡曲に「私バカよね。おバカさんよね」という歌詞がありましたね。