《救いの掛詞》

題しらす よみ人しらす

うきめのみおひてなかるるうらなれはかりにのみこそあまはよるらめ (755)

うきめのみ生ひて流るる浦なれば仮にのみこそ海人は寄るらめ

「題知らず 詠み人知らず
浮き芽ばかり育って流れる浦なので、刈りにだけ海人は寄っているのだろうが・・・。」

「うきめ」は、「浮き芽」と「憂き目」の掛詞。「のみ」は、副助詞で限定を表す。「おひて」は、「生ひて」と「負ひて」の掛詞。「なかるる」は、「流るる」と「泣かるる」の掛詞。「(泣か)るる」は、自発の助動詞「る」の連体形。「(浦)なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「かりにのみこそ」の「かり」は、「刈り」と「仮」の掛詞。「のみ」は、副助詞で限定を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(寄る)らめ」は、現在推量の助動詞「らむ」の已然形。
水に浮いた藻ばかりが育って流れる浦は、その藻を刈りにだけ海人はやってきます。私はその浦です。悲しくつらいことばかり身に受けて私が泣かれている所だから、仮そめにだけあの人は寄っているのでしょうが、それは同情・慰めに過ぎません。恋じゃないのですね。
滅多に男が訪れることがない女の嘆きである。
作者は、今の自分を何かにたとえることで捉え、今の自分に耐えようとしている。人は、つらい目に遭っても、言葉に表すことで救われることがあるからだ。言葉には、そうした働きがある。この歌を相手の男に贈ればその心を動かしたかも知れない。しかし、それは副次的効果であろう。この歌はまず以て自分のために作られたのだ。作者は、まず自分と「浦」との類似を発見した。次に、それを掛詞を駆使して表した。作者の思いは、表現の隅々にまで行き届いている。編集者はこの表現技巧を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「私に対する責任の無いうわさ話ばかりが流れる。だから興味本位でだけ貴方も私に会いに来ているのでしょうけれど、、」
    本気ではないことは最初から分かっている、ならば私もはなから期待しなければ良い。でも、そんな我が身が辛くてならない。あなただけは、と思いたいのに、、。
    「のみ」「のみこそ」の限定が詠み手の心情をより浮き立たせているように思えます。

    • 山川 信一 より:

      二箇所に使われている「のみ」が利いていますね。どうして自分だけがこんな目に遭うのだろうという思いが託されているのでしょう。
      「私に対する責任の無いうわさ話ばかりが流れる。だから興味本位でだけ貴方も私に会いに来ているのでしょうけれど、、」は、歌の言葉から遊離した解釈ですね。

      • すいわ より:

        「うきめのみ生ひて流るる」が良く理解できず、「うき(浮き•憂き)」「流るる」、流れるもので煩わしいものの「噂」で話を広げてしまいました。
        「言葉に表すことで救われることがある」という事に同感します。納得できるわけでは無いけれど、形にならない気持ちを言葉という入れ物に嵌め込むことで落とし所が着く事あります。

        • 山川 信一 より:

          「うきめのみおひてなかるる」は、「浮き芽のみ生ひて流るる」と「憂き目のみ負ひて泣かるる」の掛詞ですね。解釈はこれに寄るのが基本ですね。噂は少し飛躍していました。
          人が和歌(短歌)を作るのは、今の自分を言葉にすることで心を慰めるからでもありますね。

  2. まりりん より:

    水面を漂う浮き芽。作者は恋人の訪れがなく泣いているけれど、心のうちを誰も本気で心配してくれていない。 
    藻を刈りに来る海人。そこに感情はなく、淡々と刈っていく。恋人は気儘にやって来て、建前だけの優しい言葉を置いていく。でも矢張りそこに感情はなく、うわべだけの同情や慰めは虚しい。。

    • 山川 信一 より:

      「心のうちを誰も本気で心配してくれていない」とありますが、この際恋しい人以外の人はどうでもよさそうです。漁師は藻を刈るためだけに浦に来ます。ならば、恋人は何のために来るのでしょうか。そんな疑問があるのでしょう。

タイトルとURLをコピーしました