題しらす つらゆき
いそのかみふるのなかみちなかなかにみすはこひしとおもはましやは (679)
石上の神布留の中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは
「題知らず 貫之
かえって逢わなかったら、恋しいと思うだろうか。」
「石上の神布留の中道」は、同音の「なかなか」を導く序詞。「(見)ずは」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「は」は、係助詞で仮定を表す。「(思は)ましやは」の「まし」は、反実仮想の助動詞「まし」の終止形。「やは」は、終助詞で反語を表す。
石上の中にある布留。その中を通る「布留の中道」。私はその道を石上神社にお参りするために何度も通りました。それと同様にあなたの所へも足繁く通いました。お陰であなたにお逢いすることができました。それはもちろん嬉しいのですが、かえって恋しさは募ってきます。もしあなたとお逢いできなかったら、このように恋しいと思ったでしょうか。思わなかったでしょうね。
作者は、前の歌と同様に実際に逢うことによる影響の二面性を表している。逢える喜びを知ることもできる反面、逢えない時のつらさはかえって増すのだと。もちろん、これを相手に伝えるのは、自分が相手にますます恋していることを伝えるためである。
前の歌はあまりに思いをストレートに述べ過ぎている。これでは読み手の想像力が働きにくい。そこで、編集者としての貫之は、この歌によって歌としての体裁を整えてみせた。「見ずは」「恋し」「まし」といった同じ言葉を使う一方で序詞を加え、思いを抑えて表現している。貫之は『古今和歌集』で歌の理想を示そうとしている。ここにもその姿勢が表れている。
コメント
前回の歌、「女友達に胸の内を打ち明けているよう」と書いたのですが、なるほどこの歌と比べると前回の歌は着眼点は良いものの「話し言葉」をそのまま歌の形に入れ込んだように見えます。
「せっかく面白い事に気付いたのだから歌として仕立てるのならこんな感じの方が読み手がそれぞれの思いと重ねて共感できるのでは?」と貫之が編集部で話していそう。
「逢ひ見ずは」の歌は、「陸奥の安積の沼」と「石上の神」の歌に挟まれることにその役割があったのでしょう。独立した歌となると、少し言い過ぎかも知れませんね。歌には歌の形が有るのでしょう。
前の歌でもこちらでも、恋は逢っても逢わなくても、いずれにしても辛いという事ですね。確かにこの歌の方が控えめですし、相手を慕う気持ちを強く感じます。前の歌で私が非難の気持ちを感じたのは、言い方が強すぎたせいかも知れません。
前の歌もこの歌も言いたいことは「恋は逢っても逢わなくても、いずれにしても辛いという事」ではありません。逢った後の方が比べものにならないくらい辛いということです。ここを押さえなければ、理解したことになりません。
確かに、前の歌の方が感情が剥き出しで少し生々しいですね。