返し たちはなのきよ木
なきこふるなみたにそてのそほちなはぬきかへかてらよるこそはきめ (655)
泣き恋ふる涙に袖の濡ちなば脱ぎ替へがてら夜こそは着め
「返し 橘清樹
泣き恋うる涙で袖がびしょびしょになったら、脱ぎ替えがてらに夜は着るだろうが・・・。」
「(濡ち)なば」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(夜)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然系にし後の文に逆接で繋げる。「(着)め」は、意志の助動詞「む」の已然形。
もしそんなことになって私が生き残されてしまったなら、あなたを泣き恋うる涙で袖がびしょびしょになってしまうことでしょう。そうなれば、その衣を脱ぎ変えなければなりません。それに託けて夜になったらこっそりと藤衣を着るでしょう。しかし、それでも、人に誰のためですかと聞かれたら、返答には困ります。そうならないため、恋い死にする前に逢いに行きますね。
作者は、一応の解決策は示しつつ、それが根本的な解決にはならないことを言う。そのことで逢いに行くという意志を伝えている。
この歌は、相手の歌に応えつつも、最終的な意志を「こそ」の係り結びで暗示するに留めている。そのため、相手はその含みを様々に考えることになる。たとえば、もし自分が生き残ったらどうしようとか。要するに、宙ぶらりんな気持ちにままになる。そのため、恋は燃え尽きず燻る熾火のようにいつまでも継続し続ける。編集者は、こうした表現の巧みさを評価したのだろう。
コメント
前の歌とセットですね。「死」を言っているけれど重くないし、暗過ぎないです。きっと、死ぬほど愛し合っているけれど二人が死に向かっている訳ではなく、生きて恋し続けると思えるからでしょうね。
男の返歌の見事さを味わいたいものです。女が前の歌で自分の言いたいことを巧みに隠したのに対して、男は「夜こそは着め」という表現で対抗しています。この恋の駆け引きが見事です。
貴女がそんな風に言うものだから、私は私で君が恋死んで泣き暮れる自分を想像したよ。あまりに袖がぐっしょり濡れて着替えが必要になった。そうだ、ひっそりと藤衣を身に付けて君を偲んで床に入ろうか、それでも人目に留まったら、、(いやいや、だったら現実に支度を整えて君に会いに行けば良いのだね)
藤衣を着るとは言っていないのですよね。こちらも「こそ」で気を持たせる。男女ともスレスレの駆け引きで相手の関心を引き寄せる。上級者の恋愛術ですね。
「上級者の恋愛術」、まさにその通りです。お互いに肝心なことは言いません。恋の駆け引きそのものを楽しんでいます。隠された思いを読むのが楽しいですね。