題しらす 読人しらす
あふさかのせきになかるるいはしみついはてこころにおもひこそすれ (537)
逢坂の関に流るる岩清水言はで心に思ひこそすれ
「逢坂の関に流れる石清水ではないが、言わないで心に思うのだが・・・。」
「逢坂の関に流るる岩清水」は、「岩」と同音の「言は(で)」を導く序詞。「なかるる」は、「流るる」と「泣かるる」の掛詞。「(思ひ)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし以下に逆接で繋げる。
逢坂の関には、岩間から湧き出る清水があります。それは、恋人同士が別れを惜しんで泣かれ流れる涙のように見えます。今の私はその石清水さながらの有様です。あなたへの思いを言わないで心に思うのですが、思いは知らず知らずのうちに涙として湧き出してきます。
作者は、隠しきれない恋人への思いを有名な逢坂の関に石清水にたとえた。たとえることで、恋人の視覚に訴え伝えようとしている。石清水がこんこんと絶え間なく湧き出る様重ねたのである。それによって、言うまいという岩のような意志でさえ抑えることのできない恋心のほどを表している。
歌は言外にどれほどの情報を有するかも優劣の基準になる。この歌はその点で優れている。「逢坂の関に流れる石清水」のイメージ喚起力、「こそ・・・已然形」の係り結びが効果的に働いている。編集者は、この点を評価したのだろう。また、前の歌とは「逢坂」繋がりである。ただ、前の歌が音を出しているのに対して、この歌では逆に音を消している。対照的な歌を並べた。
コメント
石清水が、恋人同士が別れを惜しんで流す涙と、絶え間なく溢れて出てくる恋人への思いを表しているのですね。「この先何があろうともあなたを思い続ける」という意志の強さを感じます。
山、海、川、動物、植物、、恋には(も)色々なものが例えられるのですね。
「石清水」ですから、恋心の普遍性を暗示していますね。恋心が自然物にたとえられるのは、それ自体目に見えない心の働きだからです。たとえのヴァリエーションを楽しみましょう。
逢坂の関、そこの岩清水はこんこんと湧き出て流れを止めることがない。逢坂の関と言えば別れ、この人自身は別れに際して涙を流さず見送っているのかもしれない。辛さを口にはしないけれど、心ではあの岩清水のようにとめどない涙を流しているのだ。濁りのないあの清水のような真心の涙を。
「濁りのないあの」石清水にたとえたのは、自分の心の汚れ無さをアピールする狙いもありそうですね。