《春の恋》

題しらす 読人しらす

わかそののうめのほつえにうくひすのねになきぬへきこひもするかな (498)

わが園の梅の上枝に鶯の音になきぬべき恋ひもするかな

「私の庭園の梅の一番上の枝で鳴く鶯のように声を立てて泣いてしまいそうな恋をすることだなあ。」

「わが園の梅の上枝に鶯の」は、「音」を導く序詞。「なき」は、「鳴き」と「泣き」の掛詞。「なきぬべき」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べき」は、推量の助動詞「べし」の連体形。「(恋)も」は、係助詞で強調を表す。「かな」は、詠嘆の終助詞。
春になり、私の庭の梅の花が咲きました。鶯も一番上の枝で鳴いています。鶯は遠く離れた誰かに呼び掛けているかのようです。その様子は、まるで今の私です。このままでは、逢えないあなたを思って声を上げて泣いてしまいそうです。私は、今まさにそんな恋をしているのですよ。そうなったら、この恋は人に知られてしまいます。そうなる前にどうか逢ってください。
春が来て鶯が鳴く。嬉しいはずの鳴き声も恋する者にとっては悲しみを誘うように聞こえてくる。恋以外の何物もその価値が半減してしまう、それが恋である。
「郭公なくや皐月の菖蒲草文目も知らぬ恋もするかな」(夏)「夕月夜さすや岡辺の松の葉のいつとも分かぬ恋もするかな」(秋)に続く、「恋ひもするかな」の春バージョンである。同じ歌のパターンを用いることで、様々な歌ができることを示している。この歌は題材を「郭公」から「鶯」に変えている。そして、音声を加えている。ただし、歌の文法構造は少し違っている。前の二つの歌に使われている間投助詞の「や」が使われていない。そのため、歌から受ける印象がやや弱くなった。また、「なく」という行為が具体的・限定的であり、「文目も知らぬ」の持つイメージ喚起力に於いて「郭公」の歌に及ばない。

コメント

  1. すいわ より:

    我が家の梅の木のてっぺんに舞い降り、春を宣言するように高らかに鶯が鳴く。春が来たのだ。では私の心には?春は訪れようか?鶯の声を聞くにつけ泣きそうになる。いっそあの鶯のように皆に知られても一番目立つところでこの思いを告げてみようか。「春」だけにまだ若い、秘め切れない恋を示しているのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      「梅のほつえ(上枝・秀つ枝)というところに並々ならぬ思いが込められているようです。「いっそあの鶯のように皆に知られても一番目立つところでこの思いを告げてみようか。」という切羽詰まった思いなのでしょう。

  2. まりりん より:

    梅の一番上の枝に止まっている鶯。作者自身の様にも思えますが、私は恋の相手の様にも思えました。
    梅の木の下から見上げると、貴女は見えているのに手が届かない所にいる。美しい声で鳴いている姿に益々心惹かれるの。でも近づくことが叶わずに苦しい。

    • 山川 信一 より:

      確かに、梅の上枝で鳴いている鶯は、作者には手の届かない恋の相手に感じられたかも知れませんね。だからそれを暗示していないとは言えません。ただ、歌の構造上「わが園の梅の上枝に鶯の」は、「音」を導く序詞ですから、泣くのが作者である以上、それを無視するわけにはいきません。

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