《恋の駆け引き》

右近のむまはのひをりの日、むかひにたてたりけるくるまのしたすたれより女のかほのほのかに見えけれは、よむてつかはしける 在原業平朝臣

みすもあらすみもせぬひとのこひしくはあやなくけふやなかめくらさむ (476)

見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日や眺め暮らさむ

「右近衛の馬場の引折りの日、向かいに立っていた車の下簾から女の顔がほのかに見えたので、詠んでやった  在原業平朝臣
見ないわけでもない、見たわけでもない人が恋しいのは訳がわからず、今日は思い沈んで過ごすのだろうか。」

「引折り」は、天皇の前で馬上から弓を射る儀式の直前に行われる試射。右近衛では五月六日に行われる。「見ずもあらず」は、二重否定。「ず」は、打消の助動詞。「(今日)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「(暮らさ)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。
あなたのお顔を下簾からほのかに見てしまいました。ですから、見ないというわけではありません。でも、それは見たことになるのでしょうか。そうも思えません。そんなあなたのことが恋しいのは訳がわかりません。今日はこんな思いを抱いて物思いに耽って過ごすのでしょうか。あなたは罪な方です。私をこんなに宙ぶらりんな思いにさせるのですから。
具体的な場面による恋の歌が出てきた。恋の達人、業平の登場である。女の顔が下簾から見えたのは、女が引折りを見たかったからだけではあるまい。わざと隙を見せて、恋を男に仕掛けたのだ。多分、その男が業平だと知って。ここからが挑まれた業平の腕の見せ所である。どう女心を動かしていくか。業平は、露骨に逢いたいなどと言わない。今の自分の心を正直に伝え、次の展開を女に委ねた。恋は、思いのキャッチボールによって進む。それは歌の贈答によって行われる。その醍醐味は、やり取りの過程を楽しむことに有る。強引に結果だけを求めることには無い。そのためには、贈る歌は、相手に応える余地を残していくことが重要である。つまり、相手を圧倒したり、欲望を剥き出しにしたりしてはいけない。この歌は、そんな恋の駆け引きの手本を示している。

コメント

  1. まりりん より:

    まるでゲームのようですね。なるほど、恋はゲーム、遊びの要素もある訳ですね。すぐに終わってしまってはつまらない、時間をかけて楽しまなくては。お互いに仕掛け合って、如何に相手の心を動かすか。これは負けられません。双方ともに真剣ですね。

    • 山川 信一 より:

      恋はゲームでもありますね。ゲームであれば、真剣にやるからこそ面白い。そして、恋ほど面白いゲームはそうそう無いのでしょう。ゲームは攻略が難しいほどやり甲斐があるし面白い。その重要なアイテムが歌なのです。

  2. すいわ より:

    下簾のある乗り物に乗っているくらいだから相応の地位にある女官ですよね。お互いが思わせぶりに大人の駆け引きを楽しむ。のらくらと曖昧な態度を取り、次の行動、相手の思いを引き出す。流石の手腕ですね。絶妙な押し引きの加減、寄せて返す波のようで、誘われて歩を一歩一歩進めているうちに気付けば深みにはまっていそう。

    • 山川 信一 より:

      駆け引きを繰り返しながら、自分の掌中に収めようとしても、相手の思い通りに動かされる。恋は自由になりません。思わず深みにはまってしまいます。でも、それも魅力なのでしょう。

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