寛平御時きさいの宮の歌合のうた よみ人しらす
ゆきふりてとしのくれぬるときにこそつひにもみちぬまつもみえけれ (340)
雪降りて年の暮れぬる時にこそつひに紅葉ぬ松も見えけれ
「寛平御時后の宮の歌合の歌 詠み人知らず
雪が降って年が暮れてしまった時に最後まで紅葉しない松も見えることだが・・・。」
「(暮れ)ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「こそ」は、係助詞で強調を表す。係り結びとして働き文末を已然形にし、以下に逆接で繋げる。「見えけれ」の「見え」は、ヤ行下二段活用の動詞「見ゆ」の連用形。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形。
雪が降る大晦日。すべてが雪に埋もれる中、松の木だけが緑を保つ。紅葉することさえなかった。あたかも永遠の命を持つかのようだ。しかし、それを見るにつけ、我が身の儚さを思わずにいられない。季節は四季を巡り元に返るけれど、人は一方的にただただ朽ち果てていくだけなのだ。ああ・・・。
これも、大晦日の思いである。変わらないものを見て変わり行くものを思う。この歌は、論語の「歳(とし)寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るるを知る」を踏まえている。この言葉は、「危難の時にはじめて人の真価がわかるものである。」のたとえになっている。しかし、この歌では変わらないものの価値を讃えるのではなく、変わってしまうものの悲しみに焦点を当てている。雪の大晦日に無常への悲しみが込み上げてくると言うのである。「こそ・・・已然形」が利いている。読み手が書かれていない内容を想像し、共感する仕掛になっている。
コメント
年の暮れに、松は変わらず蒼く毅然としているけれど、、家は朽ちて、我が身は老いていき、蓄えは底を尽き、大切な人は居なくなり、、、と後ろ向きのことばかりが浮かびます。
変わっていくからこそ愛おしい という考え方もありますよね。経年変化して、深い味わいのあるアンティークになったり。
でもこの歌では、無常を否定的に捉えている。前の歌のように、やはり年の暮れというのは人生の終わりと重なって、物悲しくなるものだったのでしょうか。
詠み手も読み手も貴族なのですから「家は朽ちて」と「蓄えは底を尽き」は一般的ではありません。思いは「我が身は老いていき」と「大切な人は居なくなり」に絞られるでしょう。
まりりんさんは、無常を肯定的に捉えられるのですね。若さがそうさせるのでしょう。羨ましい。
大晦日、年の、季節の区切りに振り返り、総括する。その時目にした光景を詠んでいるかと思いきや「ゆきふりてとしのくれぬるとき」は自身が年を重ね白髪ともなり人生の終焉を迎える頃、なのですね。
実りの赤(紅葉)ではなく常盤の緑(松)に目を向ける。いつまでも若さを保つ松と老い衰えて行く自分を対照して悲しんでいるようでもあるし、自身の人生に重ねてやり遂げられなかった後悔とも取れなくもない。たった二文字「こそ」がここまで語るのですね。
足りなさを自覚出来る人は、足元のラインがゴールでなくスタートラインなのだと思います。また、そこから始まる。そこから踏み出せる。
「こそ」の後をどう読むかは、読み手に任されています。嘆きのままなのか。それとも、「そこから始まる。そこから踏み出せる」と思うのか。
すいわさんは、前向きですね。見習いたいです。