是貞のみこの家の歌合のうた たたみね
やまたもるあきのかりいほにおくつゆはいなおほせとりのなみたなりけり (306)
山田守る秋の仮庵に置く露は稲負鳥の涙なりけり
「是貞の親王の家の歌合の歌 忠岑
山田を守る秋の仮の小屋に置く露は稲負鳥の涙であったことだなあ。」
「露は」の「は」は、係助詞で主題を表している。「涙なりけり」の「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
山近くの田の番をするための秋の仮小屋。その小屋に露が置かれている。秋は深まり、季節は冬へと向かっている。気付けば、これは秋の鳥である稲負鳥が流した涙であったのだなあ。
この歌も「AはBなりけり」の構文で作られている。Aは主題であり、既知の事実として扱われ、それがBであったことに気づき詠嘆するという意味を伝えている。まず、Aに当たる主題に工夫がある。「露」には、長い修飾語がある。「山田守る秋の仮庵に置く」は、「山田」→「仮庵」→「露」へと次第に焦点が絞られている。ここに創意工夫がある。詞書によれば、歌合の歌とある。つまり、勝負歌である。人とは違う目の付け所を誇示しているのだろう。では、なぜそれを「稲負鳥の涙」と言うのか。「稲負鳥」は、秋歌上・208「我が門に稲負鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁は来にけり」に出て来た。恐らく、この鳥は、実った稲のような羽の色をした、秋にふさわしい鳥なのだろう。ならば、稲が刈られ秋が終わるとしているのを悲しむはずだと作者は考えたのだろう。そして、それは自分の思いに重なる。稲負鳥こそ自分の気持ちを代弁してくれている。行く秋を共に悲しむにふさわしい鳥だと言うのだ。
ただ、歌合の歌であるから、編者にはやや奇を衒っているという思いがあったかもしれない。言わば、「歌の様は得たれども真少なし」の歌なのだろう。
コメント
美術館に展示されている絵の脇にある解説文を読んでいるような感じだ、と思ったのはあながち間違いではなかったという事でしょうか。歌自体が「詞書」のようと申しましょうか、、。
おっしゃる通り、段々にフォーカスが絞られて、こちらの目線の動線が決められるので、情景は浮かんできます。でも、情報が与えられ過ぎて余白?空気感?温度感?が私には感じられませんでした。「山田守る」と冒頭にある事で稲負鳥の寂しさにこぼれる涙の儚さより、仮庵の存在感の方が勝ってしまったようにも思います。
作者は、208の歌を意識して作ったのでしょう。つまり、稲負鳥が鳴いて秋が来るなら、稲負鳥が泣いて秋が行くと言いたいのでしょう。また、編者からすれば、秋の初めと秋の終わりに「稲負鳥」の歌を配して、バランスを取ったのでしょう。
行く秋の寂しさを詠っていても、紅葉が題材の場合とは趣きが全く違いますね。この歌では色彩感が地味で、稲負鳥の悲しそうな鳴き声が相まってより一層もの悲しさを醸し出します。
仮庵は、刈った稲(刈り稲穂)と掛けていると考えるのは苦しいでしょうか?
確かに色彩感に乏しいですね。それが行く秋への悲しみに重なります。稲負鳥は、秋の初まりには鳴いても、終わりには声も出さずに涙を流しているのかもしれませんね。
仮庵は、刈り取った稲のための仮庵です。当然、二つは掛かっています。映像として、刈り取った稲が浮かんできますね。