これさたのみこの家の歌合によめる たたみね
あめふれはかさとりやまのもみちははゆきかふひとのそてさへそてる (263)
雨降れば笠取山の紅葉葉は行き交ふ人の袖さへぞ照る
「是貞の親王の家の歌合で詠んだ 忠岑
雨が降れば笠取山の紅葉葉は行き交う人の袖までも染めるほどに照り輝く。」
「雨降れば」は、「笠」に掛かる枕詞。「さへ」は、添加の副助詞で「までも」の意を表す。「ぞ」は係助詞で強調を表す。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「照る」は四段動詞「照る」の連体形。
雨が降ると濡れないように笠をさす。ならば、その名を持つ笠取山は、笠を持っているので、当然雨に濡れない。ならば、この山は紅葉するはずがない。それなのに、なんと美しい紅葉か。それは、行き交う人の袖までも染めるほど、何もかも紅葉色に染めているのだ。
感動には意外性が含まれる。したがって、笠取山の紅葉への感動にも意外性がある。紅葉の美しさが予想を超える圧倒的なものだったからだ。作者は、その意外性を笠取山の名と袖を染めるほどの輝きとのギャップによって表現したのである。
コメント
いつも悲しみの涙で濡れる「袖」、今日は雨で濡れている。雨でも「濡れない」はずの笠取山ですら、あんなにも美しく紅葉させるこの雨は、きっと袖も明るく温かく染め上げるだろう。あの紅葉葉のようにとりどりに。
、、これだと雨が主体になってしまいますね。
紅葉の色そのものが光を放つほど眩しくて、その色を受けて袖も染まり同じように照り返している。空間を越えて影響力を持つほどの圧倒的な鮮やかさ。こちらの解釈の方がこの歌には似つかわしいでしょうか。
問題は、紅葉が染めるのがなぜ「袖」なのかということですね。すいわさんは、そこに拘りました。正しい考え方です。そこで普通なら袖を濡らすのは「涙」であるのにと。その理由は、どちらも袖を濡らすものだからです。そこで、次のように考えてみました。
「雨降れば」は枕詞であるけれど、同時に実景でもある。すると、今、袖は雨に濡れている。この季節、雨に濡れれば、木々の葉が紅葉する。ならば、雨で袖も紅葉してもいいはず。ところが、そうではない。袖を照り輝かせているのは、雨に濡れるはずのない笠取山の紅葉だった。この紅葉は、雨に代わって袖を紅葉させるほどの威力を持っている。その美しさは桁外れなのだ。