題しらす よみ人しらす
あきのつゆいろいろことにおけはこそやまのこのはのちくさなるらめ (259)
秋の露色々異に置けばこそ山の木の葉は千種なるらめ
「秋の露が様々に違った色を置くからこそ、それに染められて山の木の葉は様々な色になっているのだろう。しかし・・・。」
「置けば」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「こそ」は係助詞で、強調を表し、係り結びとして働き、文末を已然形にし、以下に逆接で繋げる。「らめ」は、現在推量の助動詞の已然形。
秋の木の葉はなぜあれ程様々な色に染められているのだろう。白露が染めているとも、雁の血の涙が染めているとも言う。しかし、どちらも納得が行かない。露が白一色ならば、なぜ様々な色に染められるのかその理由がわからない。また、雁の涙が血の色をしているにしても、それなら赤一色のはずだ。なのに、紅葉には様々な色がある。そう考えると、やはり秋の露の方に様々な色があり、それが置くからこそあのように様々な色に染まるとしか考えられない。とは言え、そう断定することもできないのがホントのところだ。
「霜葉は二月の花より紅なり」というように、紅葉は花よりも赤い。しかも、木の葉は一色ではなく様々な色に染まる。なぜこれほど様々な色が出せるのかという驚きと疑問は、誰しもが持つ。そこで、「是貞の親王の家の歌合」の再録に留まらず、もう一つ歌を加えている。ここに『古今和歌集』のオリジナリティがある。どの歌も「らむ」を使っているけれど、扱い方が違っている。編者は、その違いを楽しんでいるようだ。
「白露の色は一つをいかにして秋の木の葉を千々に染むらむ」の「らむ」は、疑問に付いている。「秋の夜の露をば露と置きながら雁の涙や野辺染むらむ」の「らむ」は、答えに付いている。「秋の露色々異に置けばこそ山の木の葉は千種なるらめ」の「らむ」は、その答えを批判する思いに付いている。
コメント
前の二つの歌を受けて詠まれたわけではないのでしょうけれど、あえてこの歌をここに持って来て、「さぁ、皆さんはどう思われますか?」と問いかけられているように思えて来ます。
学校で古典を学ぶ時、和歌が並んでいると、ただただ前から順に別々の人が詠んだ別の歌を見る(この歌はこういう内容と認知)だけで終わってしまう。書かれている意味を知る事はもちろん大切ですが、それだけでは勿体無い。歌の並びまで工夫して名の通り「歌集」として「歌の花束」という一つの作品になっている事を知る喜びをここで初めて学ばせて頂いております。和歌に感動している自分がここにいることに驚きです。
先生、毎日、有難うございます。
いいえ、どういたしまして。こちらこそ、読んでいただき、毎回心の籠もったコメントを戴いていることに感謝しています。よい授業は生徒が作るものなのです。それを実感しています。すいわさんは、あるべき生徒のお手本です。