「みなむすびといふは、糸を結びかさねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればといふ」と、あるやんごとなき人仰せられき。「にな」といふは、あやまりなり。
「『蜷結びと言うのは、糸を結び重ねた形が、蜷という貝に似ているのでと言う。』と、ある高貴な方がおっしゃった。『にな』と言うのは、誤りである。」
これも故実へのこだわりである。兼好が言いたいことは「『にな』といふは、あやまりなり」である。その理由は何か。順を追って考えてみる。ここから、当時、「みな」と言うべきところを多くの人が「にな」と言っていたことがわかる。では、それは「になむすび」と言っていたことを指すのか、それとも、似ている巻き貝を「にな」と言っていたことを指すのかのか。それとも両方なのか。可能性としては、どれも考えられる。しかし、兼好がこの言い方で十分通じると思っていたのだから、どれかに特定できるはずである。
そこで、「『あるやんごとなき人』がなぜこう言ったのか?」から考えてみる。すると、「みなむすびといふは」という言い方は、これが聞き手との共通認識であることを示唆する。すなわち、話の前提となっている。でなければ、コミュニケーションが成り立たない。つまり、当時、「みなむすび」という言い方が存在していたことを示す。ところが、その名のいわれは忘れられていた。そして、その巻き貝は、当時「にな」と呼ばれていた。そこで、その方は、そのいわれを「糸の結び重ね方が巻き貝に似ていて、その名が『みな』だからなのだ。」と説明した。「だから、その巻き貝は、『みな』と呼ばねばならない。」と言いたいのだ。
兼好はこれに賛成している。もちろん、兼好の関心は貝の名よりも「みなむすび」という名にある。貝の名への関心は低いだろう。けれど、その貝は「みなむすび」の由来になっている。そうなると、話は別だ。貝の名も疎かにはできない。正しく「みな」と呼ばねばならないと考えるのだ。ちなみに、この考えを発展させれば、言葉は互いに関連を持つから、言葉の変化をただちに認める訳にはいかないことになる。ここに兼好の保守的な言語観が伺われる。
コメント
「カワニナ」の「カワ」は当然「川」、「ニナ」って何?と子供の頃思っていた事を思い出しました。タニシの細長い感じの貝ですよね。蛍の幼虫の餌。「あわじ(鮑)」結びがあるのだから「みな」結びも確かに貝の名から来ているのでしょう。小さな貝ですから「実が無い(ミナ)」なのかもしれません。庶民の食べものだったのでしょう。でも、言いにくい。皆が呼ぶ間に「ニナ」に転じていったのでしょうか。
兼好は高貴な方の一言でハッとしたのでしょう。故実への拘りの強さ、想像以上です。残念ながら、貝の名「ニナ」に定着してしまいました。それでも、兼好がここに書き記しておいたお陰で名の由来、変化を今知ることが出来たことに感動してしまいました。
「ミナ」から「ニナ」への変化は、言い易さによるものでしょう。「ミ」の音は鼻に掛かります。より楽な「に」に変わったのでしょう。よく使う言葉はこうなります。しかし、一方、機能的な変化もあります。たとえば、「すいません」は、「済む+ません」からの独立を示しています。「み」から「い」への変化によって、ただの謝り言葉になりました。「ありがとう」も同様です。そう考えると、「みなむすび」にとって、「ミナ」が「ニナ」に変化した方が都合がよかったのでしょう。そんな下品な巻き貝とは無縁な方がいいからです。語源など忘れられた方が都合がいいものもあります。言葉は使いやすく変化します。