はちすのつゆを見てよめる 僧正へんせう
はちすはのにこりにしまぬこころもてなにかはつゆをたまとあさむく (165)
蓮葉の濁りに染まぬ心持て何かは露を玉と欺く
「蓮の露を見て詠んだ 僧正遍昭
蓮の葉が濁りに染まらない心を持って、なぜ露を宝石だと欺くのか。」
「蓮葉の」が「欺く」の主語。「染まぬ」の「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「何かは」の「か」も「は」も係助詞で疑問を表す。係り結びで「欺く」に掛かる。「欺く」は連体形。
蓮は、泥水の中に育ちながら、美しい花を咲かせる。そんな濁りに染まらない清らかな心を持っている。それなのに、どうして葉の上に置かれた露を宝石のように見せて人を欺くのか。あんまりじゃないか。
蓮の葉の上に置かれた露は丸く美しい。その印象、それへの感動をどう表現したらいいか。どう表現したら、読み手にも感動を共感して貰えるか。考えてみれば、蓮の上に置かれた露は誰でも見たことがある。ならば、それ自体をそのまま写し取ってもあまり効果がない。表現すべきは、露がどう見えるか、それをどう思うかである。そこで、蓮の露を宝石にたとえ、泥水の濁りとの落差を印象づける。そして、人を欺いていると、蓮を非難してみせる。つまり、意表を突いた誇張表現を用いたのである。これによって、蓮の露の印象や作者の感動が読み手に伝わる。この歌には、何を、どう表現すべきかへの配慮が行き届いている。
コメント
「汚れることを知らぬ蓮の葉が何故偽りを見せるのか」面白いですね。水面下の光も通らない泥の世界と水上に育った蓮の葉に転がる銀に光る透き通った水の玉。このコントラストで水滴の美しさが更に際立っています。
歌は読み手の心を揺さぶらなくてはなりません。そのことで詠み手の思いが伝わります。「面白い」と思わせたら、勝ちですね。「濁り」と「玉」の対照が効いていますね。
それにしても、ようやく郭公の歌が終わりました。郭公に拘ったのは、夏の持つうんざりするほどの単調さを表現したのでしょうか。
郭公、ようやく終わったのですね。
すごくたくさんありました。夏と言えば郭公だったのでしょうか。
蓮の花ってすごいんですね。
泥水の中からあんな綺麗な花を咲かせるなんて。
しかしこの表現には参りました。
こんな風に表現するとは。普通考えつきませんね。
いろんな表現方法がありますね。
夏の歌の題材を郭公に絞ったことには幾つかの理由があるのでしょう。たとえば、和歌表現の可能性を追求するとか、夏の耐えられない気分を象徴するとか。他にも考えてみてください。
確かにこの歌の表現はかなり凝っていますね。蓮の露の美しさを何とか伝えるには、これくらい刺激のある表現が必要だったのでしょう。