第百三十七段  心で味わう

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるにおとれる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひは、さる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
 万の事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
 望月のくまなきを千里の外までながめたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる群雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの濡れぬるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。片田舎の人こそ、色こく万はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることもなし。

「花は盛りにだけ、月は曇りや影が無いのだけ見るものか、いやそうではない。雨に向って月を恋い慕い、簾を下ろして部屋に籠もって、春がいつ来ていつ行ってしまったことを知らないのも、やはりしみじみとして情趣が深い。まさに咲こうとするほどの梢、散り萎れている庭などこそ見所が多いのだが・・・。歌の詞書にも、『花見に行ったところが、既に散ってしまったので』とも、『差し障ることが有って行かないで』などとも書いているのは、『花を見て』と言っているのに劣っているか、劣りはしない。花が散り、月が沈みかけるのを慕う習慣は、当然のことであるけれど、特に教養が無く頑固な人こそ、『この枝、あの枝散ってしまった。今は見所が無い。』などとは言うようだ。
 すべてどんなことでも、始め終りこそ興味深い。男女の恋も、ひたすら対面して情を交わすことを言うのか、そうではない。契ることなく終わってしまった辛さを思い、空しくなってしまった約束を恨み嘆き、長い夜を一人で明かし、遠く遥かに離れた所に心を馳せ、庭に浅茅が生えて荒れ果てた宿に昔を偲ぶことこそ、洗練された恋愛を知っているとは言うべきだろうが・・・。
 満月の曇りや影が無いのを千里に広がる空の彼方まで眺めているよりも、暁近くなって待って出て来た月が、たいそう趣深く、青みがかっているようで、深い山の杉の梢に見えている、木の間の光、時雨れている群がる雲に隠れているほどがこの上なくしみじみと趣深い。椎柴・白樫などの濡れているような葉の上にきらめいているのこそ、身にしみて、物の情緒を解する友がそばにいてほしいと、都が恋しく思われる。
 すべて、月・花は、やたらに目で見るものか。春は家を立ち去らなくても、月の夜は寝室の中にいながらでも思っていることこそ、たいそう頼もしく、興味深い。教養の高い人は、ひたすら好いているようにも見えず、面白がる様子もほどほどである。片田舎の人こそ、しつこく何でも面白がるが・・・。花のそばには、無理矢理近寄り、脇目もふらずじっと見つめて、酒を飲み連歌をして、しまいには、大きな枝を考えもなく折り取ってしまう。泉には手足を突っ込んで、雪には下り立って足跡をつけるなど、すべての物を離れてあるまま見ることもしない。」

物事はその最盛期にだけ価値があるわけではない、むしろ、まだ始まらない頃、既に終わってしまった頃、満たされないもの、足りないもの、欠けているものの方にも趣がある。なるほど、物事はそれ自体で満たされていると、こちらが関わっていく余地がなくなる。対象に圧倒されるばかりで、想像力が働きにくいからである。これでは趣が感じにくくなる。感動とは、対象に感情移入することである。言わば対象とのコミュニケーションである。その余地がある方が望ましい。そこに「盛り」ではない方がいい訳がある。
兼好は、この考えを実例を挙げつつ述べている。実例は、多くの詩歌を踏まえ、説得力を持たせている。ただし、表現には、嫌みにならないような工夫が凝らされている。そのために、さりげなく教養のほどを示すことができた。
一方、「片田舎の人」に対する批判は、極めて具体的に述べられている。彼らの態度をよほど苦々しく思っていたのだろう。読み手にも思い当たるところがあるようなことがあからさまに書かかれている。兼好が批判しているのは、結局、「片田舎の人」が心を働かせていないことである。物事は、心で味わえと言いたいのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    言っている事に納得の出来る段です。貫之もそうでしたが、兼好も「片田舎」の人に対して辛辣ですね。田舎者には耳が痛い。鄙にあっても情緒豊かな人もいるとは思うのですが、これ、花鳥風月でなく「人」に置き換えると、、現代の「親」は「子供」という天然に対して「片田舎」の対応をしている事のなんと多い事か。手は掛けないのにやたら口出しするとか、大騒ぎするとか。折角大きく育って花開いたものを折るとか。空恐ろしくなりました。

    • 山川 信一 より:

      「片田舎の人」への批判は、「片田舎の人」に代表される態度への批判なのですね。「片田舎」そのものへの批判では無さそうです。そう考えると、この態度は、すいわさんがおっしゃるように現代の親にも当てはまりますね。その態度がどれほど子どもをダメにしているか。そして、多くの子どもたちは親を疑うことができません。なすがままに育ちます。これはすいわさんのご経験が言わせたのでしょう。一度でも、教師としてものを教える立場に立つと、親の弊害が身に染みて実感できます。教師の仕事には、親との「戦い」も含まれています。兼好の言葉は、汎用性がありますね。

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