第二十七段 ~たらいの水~ 

 昔、男、女のもとに一夜いきて、またもいかずなりにければ、女の、手洗ふところに、貫簀をうちやりて、たらひのかげに見えけるを、みづから、
 わればかりもの思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり
とよむを、来ざりける男、たち聞きて、
 みなくちにわれや見ゆらむかはづさへ水の下にてもろ声に鳴く

 男は、女のもとに一夜行って、二度と行かなくなってしまったので、女は、手を洗う(「ところ」)に、「貫簀」(ぬきす=丸くけずった竹で編んだ簀。水が飛び散るのを防ぐために、洗盤やたらいなどにかけるもの。)を取り上げて(「うちやりて」)、たらいの水に自分の姿(「かげ」)が見えたので、誰に言うともなく(「みづから」)歌を詠んだ。歌は本来相手に贈るものだから、敢えて「みづから」と言う。独り言なのである。
〈私ぐらいもの思いに沈んでいる人は二人といないだろうと思っていたところ、水の下にももう一人いたのだなあ。〉
 女は男に惚れていたのである。恋をしても、同じ程度に相手が好きなわけではないのだ。
 だが、その歌を来なかった男が立ち聞きして、次の歌を詠む。(と言うことは、男も多少なりとも女が気になっていたのだろう。心から幻滅していたわけでもなかったのだ。)
〈たらいの水の水をくみ入れる口に(「みなくち」)に私の姿が見えているでしょうか。見えていますよね。蛙までも水の下で一緒に鳴いているのですから。それはあなたと一緒に泣いている私なんですよ。〉
 この歌の中でなぜ「かはづ」のたとえが出てくるのか。それは女の身分を暗示するためである。「貫簀」「たらひ」によっても、既に女があまり裕福でないことがわかる。男は、そんな女にふさわしい比喩を用いたのである。
 男は、女の歌に心を動かされたのである。一夜だけでいかなくなってしまった理由の一つは、身分・貧しさからくるものだったのだろう。しかし、女のことは気に入っていた。だからこそ男は女の様子をうかがいに来たのだ。これで寄りが戻った。
 歌のやり取りで、互いの心は通っていたはずである。しかし、実際に逢ってみないとわからないこともある。今だって、SNSで知り合うことがある。写真や動画もやり取りできるから、互いのことはかなりの程度わかる。しかし、それだって、実際に逢わないとわからないことが有る。同じ時間と空間の中に存在することで初めて伝わることがある。
 だから、物事の軽重をわきまえることが大切だ。自分にとって最も大切なことはなんのか。歌がそれを気づかせてくれることもある。これも歌の偉大な力である。

コメント

  1. すいわ より:

    三日続けて通ったら婚姻の成立、なのに一夜きりで、次の夜、男は訪れる気配も無く。きっと、訪れるであろう男の為に、身繕いして、お化粧して待っていたことでしょう。水鏡に映るそんな自分が殊更に悲しく思えたのではないでしょうか。一人であることをより、思い知らされてしまう。涙の雫で水面に波紋が広がってその姿さえぼやけてしまう。
    涙とともに溢れた歌は、誰のためにと気負って作ったわけではなく、かえってその真実の姿が男の心を動かしたのでしょう。「もろ声に鳴く」私もあなたと一緒に涙をこぼしているのですよ、と男が言うことで、通わなかった理由が女のせいではない、と言ってやっているように思います。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんの鑑賞を読むと、その情景がありありと目に浮かんできます。言葉の向こう側を感じなければ読んだことになりませんね。私の〈理屈読み〉を補ってくれます。いつもありがとうございます。

      • すいわ より:

        先生の解説なくして、物語を読み進む事、出来ません。一字一句を大切に大切に読み解いて下さるからこそ、物語の微妙なニュアンスを掴むことが出来ます。「こそ」、「ぞ」なんて「係り結び」と言う名のそれなりに機能のあるもの、ではなく、文章の成り行きが変わってくるくらい重要なかけらなのだと気付かせて下さいます。宝物を手渡す人、先生のような方々がいて下さるお陰で「伊勢物語」、現代に生きる私達の手に届いたのだと思います。尊いお仕事ですね。学ばせて頂き、感謝致します。

        • 山川 信一 より:

          すいわさん、過分なお言葉をありがとう。嬉しくもあり、恥ずかしくもあります。
          私もすいわさんの鑑賞に刺激を受けています。これからも一緒に読み進めていきましょう。

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