第百十八段  食材についての故実

 鯉の羹(あつもの)食ひたる日は、鬢そそけずとなん。膠(にかわ)にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。鯉ばかりこそ、御前にても切らるる物なれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなき物なり。雉・松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず。その外は心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて帰らせ給ひて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚に候ひし事、見ならはず、様あしき事なり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」など、申されたりけり。

鬢:(びん)頭の左右の側面の髪。
御湯殿の上:宮中や貴族の家にある湯を沸かしておく部屋。

「鯉の吸い物を食べた日は、鬢の毛がほつれないということだ。鯉は膠にもする物なので、粘っている物なのだろうが・・・。鯉だけは、天子の御前で調理される物なので、尊い魚である。鳥では、雉が比類の無いものだ。雉・松茸などは、御湯殿の上に掛かっているのも見苦しくない。それ以外の物は嫌なものである。中宮様の御所の御湯殿の上の黒塗りの御棚に雁が見えてしまったのを、北山入道殿がご覧になってお帰りあそばして、すぐお手紙で『このようなものがそのままの姿でお戸棚にありましたことは、見慣れず、みっともないことである。しっかりした人があなたにお仕えしていないからだ。』などと申し上げなさった。」

食材についての故実が述べられる。鯉は、天子の前で調理が許されている高貴な魚とされる。栄養価が高いからであろうか。雉も同様であろうか。松茸の評価高いのは、現在同様、香りがよいからだろうか。雁は見えるところに置くべきではないと言う。雁は食べる物ではなく、歌に詠む風流な物と思われていたからだろうか。
北山入道は、中宮の父だと言う。雁が御湯殿の上に剥き出しに置かれているのを見て、娘に故実を知るしっかりした人が仕えていないと心配する。それも外聞をはばかったのか、わざわざ手紙に書いて伝える。当時の貴族にとって、故実に従うことはそれほど重要なことなのだろう。
このように食材にまで故実があり、それに従うべきだと言う。しかし、恐らく、故実にも故実になるだけの理由があったに違いない。それがいつしか、その理由は忘れられ、形だけが踏襲されていくのが一般である。兼好は、その点については疑いを抱かなかったらしい。何よりも秩序を重んじるからだろうか。そこに兼好の思索の限界を感じる。

コメント

  1. すいわ より:

    鯉を尊い魚にしたいから、まず滋養豊富と言ったのでしょうか。「御前にても切らるる物」、式包丁の事でしょうか。穢れを嫌って身に手を一切触れずに捌く、あれですね。あくまでもセレモニーで現実的ではありません。例えば鮎を捌くとしたら小さ過ぎて無理。だから鯉を使うだけのことなのでは?食材に貴賎があるみたいな認識が滑稽です。所詮、出てくる物を食べるだけ、台所に入ったことなどない兼好さんには分からないでしょう。雉と雁の事も鮒は食べる物だけど金魚をまな板に置かれたら、、という感覚なのでしょうけれど、現実に食材として用意された物をそんな「下賎なもの」を食べていると見られては、と外聞を気にするのは見栄でしかない。当時あったか知りませんが、精進のために雁もどきを作るくらい雁はメジャーな食材でしょうに。この段については兼好とは相いれません。

    • 山川 信一 より:

      手厳しいご意見ですね。兼好がこれを聞いたら、何と言うか知りたくなりました。ご主旨には概ね賛成です。
      食材にまで貴賎をつけるのは、権威主義の姿勢が一貫しているとも言えます。ただ、お見事と思う一方で、滑稽にも思えてきます。そして、もしかしたら、兼好はその馬鹿馬鹿しさを皮肉っているのかも知れないとも思えてきます。まあ、多分そうじゃないでしょうけど・・・。

タイトルとURLをコピーしました