《風の擬人化》

さくらの花のちり侍りけるを見てよみける  そせい法し

はなちらすかせのやとりはたれかしるわれにをしへよゆきてうらみむ (76)

花散らす風の宿りは誰か知る我に教えよ行きて恨みむ

そせい法し:素性法師。僧正遍昭の子。父の出家により出家させられた。始め雲林院に住み、後に石上寺の良因院に移った。『古今和歌集』には三十六首が採られている。

「桜の花を散らす風の泊まるところを誰か知っているか。知っている者は私に教えてくれ。行って文句を言おう。」

風に乗って散る花びらの様とそれを惜しむ気持ちを詠む。風が吹いて桜が次から次へと散っていく。まるで風が桜を散らしているかのようだ。風さえ無ければ桜は散らないのに、何とも癪に障る風だ。文句を言って止めさせようと言うのだ。風を擬人化することで、散るのを止めたい思いの強さを表している。
これも雲林院の桜を詠んだ歌である。なのに、前後のそうく法師の詞書きには「雲林院」とあるがここには無い。それに替わって「ちり侍りける」と丁寧語の「侍り」が使われている。それによって、ここが「雲林院」であることを暗示しているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    なぜ「侍りける」を使ったのか気になったのですが、「雲林院」を暗示しているとの読み、なるほど納得できました。
    「桜散らす憎いやつ、一言物申したいから誰か居場所を教えておくれ」、、先生の素性法師の解説を見たら、父に従って出家せざるを得ないやるせない気持ちと取れなくもないと思いました。父に恨言は言えないのでしょうから。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、そう読むと面白いですね。桜は我が身、風は父というわけですね。この歌も僧正遍昭繋がりです。

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