第七段  もののあわれを失わずさっさと死ぬべきだ

あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年を過すとも一夜の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、栄ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

あだし野・鳥辺山:共に墓地と言う。
いみじけれ:「いみじ」は程度の著しいことを言う。良い場合にも悪い場合にも使う。現代語の「やばい」と同じ用法。
つくづくと:念入りに。よくよく。

「あだし野の露が消える時無く、鳥辺山の煙が立ち去らないで住み果てるだけの決まりになっているなら(=命がいつまでも続くなら)、どれほどもののあわれも無いことだろう。世は無常であることが素晴らしいのだが・・・。
命あるものを見るに、人ほど寿命が長いものは無い。カゲロウの夕方には死に、夏の蝉の春秋を知らないで死ぬこともあるのだぞ。よく味わって一年を過ごすだけでも、格別にゆったりとしている。もし満足できず捨て難いと思うならば、千年を過ごしても、きっと一夜の夢のような気持がするに違いなかろうが・・・。
住み尽くせないこの世に、長く生きることで醜い姿を待ち、それを手に入れて、何になろう。命が長ければ、恥ずかしい目に遭うことも多い。長くとも四十になる前に死ぬことが見苦しくないに違いないのだが・・・。
その年齢を過ぎると、容貌を恥じる心もなくなり、人中に出て交わることを思い、夕日のように傾きかけた年をして、子孫を可愛がり、その栄え行く将来を見るまでの命を期待し、ひたすら世の中をむさぼる心ばかりが深く、もののあわれもわからなくなっていくことは、見苦しい。」

まず、人間がもののあわれを感じられるのは、命に限りがあるからだと無常であることの素晴らしさを言う。次に、人の命が他の生き物に比べて長いことを指摘し、それで満足すべきだと言う。さらに、長生きしても、恥をかく機会が増えるばかりだから、四十歳になる前に死ぬのがよいと言う。そして、その年齢を過ぎると、開き直ってもののあわれもわからなくなり、恥知らずに生きることになり見苦しいから、長生きなどすべきではないと結論づける。
ここへ来て、前段の子を持つべきではないという理由が明らかになる。もののあわれもわからなくなり見苦しい生き方を誘うからである。(焦らずに先を読めと言うことか。)
なるほど、言っていることの理屈はわかる。確かに、そういう面はある。しかし、物事には必ず反面がある。別の面もあるはずだ。
たとえば、長く生きることによって身につく知恵もある。もし、誰もが四十歳前に死んでしまったら、その知恵を得ることができない。それは世の中にとってマイナスではないか。また、世の中に見やすい人ばかりが溢れているのもどうかと思う。醜い人有っての美しい人ではないか。それに、恥を恐れて行動することがよいとは限らない。臆病になり、人目ばかり気にするようになってしまうからだ。ズケズケ本音で話すオバさんだって、いた方がいい。あれこれ子育てに口を出すジジババだって、もめることも人生ではないか。キレイゴトで済ませばいいってもんじゃない。むしろ、多様性こそ健全な社会をつくるのだ。
兼好法師の主張は、物事を一面的にしか見ていない机上の空論である。どこからでも反論できる。

コメント

  1. すいわ より:

    人の望みは満ち足りることなどないもので、それを追い求めたところで終わりがない。そんな醜態を晒し続ける事を止めるには欲望を満たそうとする主体そのものを無くするしかない、という事なのでしょうか?そもそも、兼好は何歳の時にこれを書いたのでしょう?
    年を取ればそれだけの経験値も高くなる筈だけれど、それもその人の生き方次第で、二十歳にならなくてもしっかり弁えを知った「大人」な人もいれば、八十歳を過ぎても我が儘放題、始末に負えない「子供」な人もいます。そんな厄介な自分にとことん付き合うしかないのではないかと思います。他人事で好きなように言いたい事言って、それであなたはどうなの?と毎度ですが思ってしまいます。私は毎日のように恥をかいていますが(恥ずかしくてもコメント書いちゃってます)そんな自分に満足してます。

    • 山川 信一 より:

      同感です。でも、兼好法師はこう言うかもしれません。「まあまあ、そうおこりなさんな。初めにっておいたはずですよ。この文章は『心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』だって。
      書いている私自身馬鹿馬鹿しくなることなんですよ。偏屈ものの戯言だと受け流してくださいよ。」
      なのに、みんな有り難がって、兼好法師の言葉に耳を傾けています。その現実の方に何か言ってやりたくなります。

  2. らん より:

    兼好法師は物事を一面しか見ていませんね。
    兼好法師と議論して勝てるのは先生しかいません。
    先生、頑張ってください。応援してます。

    • 山川 信一 より:

      いえいえ、私ばかりではありません。らんさんも大いに反論してください。
      『徒然草』は、そうやって読むのがよさそうです。

  3. 相馬 波奈 より:

    おそらく、兼好法師の徒然草は、「どういうふうに生きるべきか」というよりも、「どういう風に生きることが美しいか」というふうに理解ができそうなので、「本当はこうあったほうがいいんだけどな…」という兼好法師の理想が多く含まれているように思います。
    もちろん彼の人生観は、つっこみどころが満載ですが、(彼によると、私もあと数年で寿命です。笑)彼の描く日本の美学に惹かれます。散ってしまった桜に趣を感じたり、病のため心の中でしか見られない月に一層趣を感じる心など、日本特有の「あはれ」の美学を今一度思い出されてくれます。
    ただ、私が思うに、年を取ってからこそ出現する人間の魅力というものもあると思います。

    • 山川 信一 より:

      初めてのコメントですね。ありがとうございます。『徒然草』が兼好法師の美学であり、理想と言うのは納得できます。
      ただし、これまでの読みは、それを有り難がるものでした。そこで、ここでは別の読みを試みています。言わば、「ツッコミを入れる読み」です。もちろん、曲解を避ける努力はします。どこまでも、言葉に忠実に読んでいきます。
      それで、これまでと違う何かが見えてこないかに期待しています。それでこそ、自分が読む価値があるというものです。
      相馬さんも、どうぞ気づいたことをお書きください。

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