《妻の、夫への遺言》

をとこの人のくににまかれりけるまに、女にはかにやまひをしていとよわくなりにける時よみおきて身まかりにける よみ人しらす

こゑをたにきかてわかるるたまよりもなきとこにねむきみそかなしき (858)

声をだに聞かで別るる魂よりも無き床に寝む君ぞ悲しき

「男が他国に行っている間に、女が急に病気をしてひどく衰えてしまった時詠みおいて亡くなってしまった 詠み人知らず
声すらも聞かないで別れる私の魂よりも私がいない床に寝る君こそが悲しい。」

「だに」は、副助詞で最低条件を表す。「(聞か)で」は、打消の意を伴った接続助詞。「(寝)む」は、助動詞で未来を表す。「(君)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「悲しき」は、形容詞「悲し」の連体形。
私は今、死の床にいます。私はこのままあなたの声すらも聞かないであなたと別れることになるでしょう。それはなんとも無念で悲しいことです。けれど、その私の魂よりももっと悲しいことがあります。それは、私がいなくなってこの床に一人で寝ることになるあなたのことです。それを思うと申し訳なくてたまりません。あなた、寂しい思いをさせてごめんなさい。
作者は、夫が地方に単身赴任中に病気になり、死を覚悟した。そこで、最期に自分がいかに夫を愛しているかを伝えている。
前の歌と同様に、死にゆく女の思いを詠んだ歌である。切ないほどの愛が伝わってくる。ただし、前の歌よりも相手への愛が表れている。自分のことよりも相手を思いやっているからである。この歌は、詞書により特殊な状況で詠まれたことがわかる。だから、それを元に解釈しなければならない。しかし、その一方で「詠み人知らず」になっているから、心から夫を愛している妻ならばこういう思いを抱くだろうという一般も示している。

コメント

  1. すいわ より:

    地方へ赴任していて離れている家族に何かあったらどんなに急いで帰り着いたとしても亡骸に会うことも出来ないかもしれない。妻はいよいよ亡くなる時、視界が暗くなり、ここにいない夫の声を聞くことも叶わない。それでも貴方は確かに存在していて、なのに私が死んで居なくなったら貴方はこの冷たい床で一人眠るしかない。私の悲しさなんて貴方の辛さに及びもつかない。死の間際まで相手を思いやる、相手の事を考えている女、一緒の場には居なくても心は常に寄り添っていたのでしょう。無私の愛を傾けられる相手に巡り会えたのだから、きっと幸せな人生だったのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      女にとって、死の床にあってこんな思いを抱けるほどの相手がいるほど幸せな人生はないでしょう。もちろん、それほど思われる男にとっても。この歌には理想に夫婦関係が表れています。

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